ベイルートへの二度目の渡航
ここは中東のパリと称されるがごとく、道路標識などはフランス語で書かれており、
書店を覗けば、フレンチオンリーだ、などと門前払いを喰らう。
戦時下からフランス流の気品のようなものが吹き込まれた街なのだろう。


街の中央には大学がひしめき合い、英語、フランス語、アラビア語を駆使する人間がゴロついている。
内戦後の廃墟を再生させた都市は現在、ジャーナリズムを志す者の一つの中心地となっているそうだ。
確かに「ジャーナリズム」における公用語にとってMiddle East, Gulfは今をもってしてホットなキーワードなのかもしれない。
「世界」を考える上で、距離的にも、生活水準的にもイスラエルと同様、ベイルートは立地的に大変恵まれていると言える。


酒も女も音楽も近代化した街にあって、私の目をひいたのはダウンタウンだ。
空港では戦後の荒廃した風景と現在の見事な街並を比較するような記事を見かけた。
なるほど、もう立ち直った、私たちは健全だという訳だ。
路上にせり出した、西洋風のテラスでは世界中の高級料理が食える。
イルミネーションもどこかの国がそうであるかのように既にクリスマス仕様となっている。
シャネル、ディオール、ヴィトンにグッチ、バレンシアガ、ボッテガベネタと伊勢丹に一式ありそうなものがこちらにも耳を揃えて並んでいた。
ヒジャーブで頭を隠したアラビア女性がクロエで買い物をして高揚している。その表情は六本木や銀座あたりに転がっているものと大した差はなさそうだ。


またダウンタウン近郊は現在開発ラッシュが続いている。スターデザイナーを使った幸せな未来都市が建設中だ。
竣工時のパースが仮囲いに張り巡らされている辺りを見てもこのマニュアルはグローバルスタンダードだなと思える。
黒装束を身につけた女性たちがスターバックスラテをすすりながら談話している。
ほしいものは皆一緒。そんな文言のかかれたスタンプをパスポートに押されたような気分である。


この街づくりのお金はどこから出たのだろうか。
レバノンではあいにく、石油は採れない。レバノン杉?冗談じゃない、あればただのお飾りだ。
ワイン畑は猫の額、そうヨルダン同様観光収入しかないこの国が突然、こんな街をつくれるわけがない。
どこから出た金かは、私は調べたわけではないが、強力な資金を有する隣人が出来たことに由来するのだろうと想像する。


ベイルートの夜、一人暇を持て余し、ベイルート版のブルーノートに訪れると
その日はジャズではなく、オリエント(アラビック)をやっていた。
日本でいうところの演歌みたいなもんだろうと思う。
シャレた出立ちで酒を呑むリベラルなムスリムたちがシンガーに会わせて
サビになると合唱して大いに盛り上がっていた。
まるで何を言っているのか、歌になっているのかすら分からぬ、歌謡曲だろうと思うが
を一語一句皆、同じように歌っている様子を見て、彼女たちは自分たちはアラビア人なのだと
再確認しているかに見えた。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)


永山則夫の獄中日記。
私のブログも似たようなもんか。
永山がマルクスへ傾倒して行き、自分の犯罪が起ったのは貧しさからだと
考えるようになっていく過程、自分が無知ではなくなっていくことを告白しているかに見えるその過程。
私はマルクスを残念ながら読んだ事がないが、
著者は極めて特別な事例としても、マルキシストたちが世にあふれていった当時を
本書を通じて私なりに考えることができた。読み切るのは結構、苦痛だった。


ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ギンズブルグの、もしくは須賀の人物への洞察、というとカチッとした印象が私にはあるけど
もっと柔らかい愛情というとちょっと照れくさいし なんだろうか、を辿ると
著者の悲しみや優しさの輪郭がこちらに伝わってくる。
時々、読み直して栄養を取り戻している。