なぜ古典を読むのか (河出文庫)

なぜ古典を読むのか (河出文庫)

訳者である須賀が打ち上げるように、本書はカルヴィーノが取り上げる「古典」との
距離感がまちまちなものがこのタイトルを冠してまとめられたものである。
別々の意図を持って書かれたものを、編者によって束ねられることに
無理強いさせているような感覚を須賀は持っているように思える。


しかし本を読み、それについて一まとまりの書評、批評といっても
差し支えなければ、を残すことを「どうやるのか」本書は考えさせてくれる。
マーク・トウェインの作品についての書評を書けという仕事があったら
どうやるのかをカルヴィーノは示してくれる。


文章を残す、例えば旅行でローマ遺跡や賑わう市場といったものを見て
どのようにその覚え書きをやるのかが、まるでわかっていないことにしばし気づかされる。
そこで自分が記す文章は、自分のイメージを代替するものである以上に
文章として独立しているようには思えないと思うことがよくある。
遺跡など訪れようものなら、それがいかなる権力下でつくられ、どのように衰退していったか
などとったものは、外在する文字をそのまま移植しているに過ぎず、「是非、あなたも訪れるべき」と結んでしまうのは愚の骨頂だ。
「幸い私は、普段見れないものが見れてラッキーだ」なんて、相当頭のネジが抜けているとしか思えない。


旅行で考えたことを書く時の事と、古典について書き記すことは似ていなくはない。