ここで重要なのは、それ故、語の定義そのものよりも「とは何か?」という暗黙の問いがはば広く共有されるようになったという事実だ。
そしてこの潜在的な訪問はそれを話題にすることが良いことだとする今ひとつの暗黙の了解となって希薄に拡散してゆく。
思考することの善意が前提となって維持されるこうした定義の試みが、既知の事実をめぐっての物語であるという点に注目しよう。
つまり、誰とも同じやり方でそれを話題にしうるとき、人は自分がそれを知っていると確信しうるのだ。ここにおいて物語がすでに知に従属するものではなくなっていることは明らかであろう。 物語批判序説 蓮實重彦


折に触れ、知識、具体的に言えば、建築やその周辺にある技術への知識を吸収しようと試み、それを言語、たとえば英語にトランスレートする、そんな作業を私はしばし繰り返している。上の引用を読み、物語と知の弁別が行われていることに気づきます。
私は素人ですからといった注釈をつけて発せられるような質問の前に、度々、「玄人」たちの「物語」は知ではないことを暴露させられる。私は時時、失望すらする。今身につけている領域での知識では、相手の腕をへし折るくらいの強さがほしい。物語になっている場合、論理的透明性は極端に薄れ、実際のところ、解決策は見つからない。

荒野のガンマン [DVD] FRT-213

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西部劇をいくつか看てから、ペキンパーを観るとちょっと分かったような気がした。
お、ペキンパーがわかってきた?今日は少しうれしい一日だ。
途中まで護衛するが、オハラが一人で行けるといいはね、
男は町へ引き返す、悲鳴が聞こえもどると、馬が逃げている、
オハラが水たまりにはまって、それを助ける。このアパッチが出てくる前ごろの
道中のやり取りが、妙にいいんですね。


それにしても画面の中に映るもののフレームに対する入り込み方が、がっしりとしている。プロじゃないので定石通りといえるのかは知らないけど、画面の中で
へたなフレームアウトが起こっていない。堅い感じがいい。