今日で禁煙17日目である。まだ時折、むしょうに空いた時間があると
すいたくなるが、それ以外の時間ではまるで存在を忘れている。
あまりにも簡単な忍耐しか必要とされないため、驚いているがまだ90日までには大分あるので
油断はできない。


日本で馬の餌のように本を買い込んできた。
バケツに一杯つまっている餌をむさぼる家畜は、目がキレていた記憶がある。
獣の狂気のような表情を家畜が思い出す一瞬なのだと思う。
書物だけならいいが、タバコをやめて以来、飯も家畜ばりに食っている。
肉、野菜、コメ、シュバルマを腹いっぱい食っている。デブになる予感がする。
現地人のコックに上司とともにてんぷらと唐揚を教えたら、今日上手に作ってきてくれた。
伝えて伝わることに、喜びはありますね。
ほうれん草の胡麻あえとキンピラゴボウが食いたいがこちらではほうれん草とゴボウは手に入らない。
うまいソーセージ、これはこの地域には滅多にないんだな。休みがとれたらドイツにソーセージを食いに行くか・


反=日本語論 (ちくま文庫)

反=日本語論 (ちくま文庫)


本書では頻繁に著者によって鈴木孝夫氏が引用される。氏は当時にあって乱れている日本語を戒めんと数点の日本語にまつわる著作があるようだ。気の毒なのは、この鈴木氏まるで西部劇の悪漢のような典型的な悪を演じさせられ、毎度毎度たたき台にされ、ラストは荒野のガンマンよろしく著者に退治されてしまうことだ。


冒頭にある「不意打ち」によって限界領域の漂流する、から連想したのは
ロラン・バルトのものの眺め方だった。
常識化しているものに、あらぬほうから投石し、演目を忘れた役者さながら、きょとんとさせてしまうような状態、宙につられたような、どこにも定着できぬまさに漂流


テレビで見た児童が尊敬する人をジョンフォード、サム・ペキンパーと答える姿に感動する蓮實夫婦。この夫人が興奮している様子が著者に感染していくところが実に笑える。この知識として残っていても何の役にも立ちそうにない某氏の名を脳の片隅にとどめているということへの感動は、映画の話をする際に頻繁に要求されるよな気がする。これも一つの言葉を考える上での投石活動なのだろうか。


「ペッキンパーの一語が洩れる瞬間、ひたすら一つの名前でしかない言葉は、少年の感性がこれまで受けとめてきただろう幾多のペッキンパー的映像とせめぎあって、その名前の習得を彼に許した制度としての「文化」の中に、あの名前の儀式としての排除と選別のメカニスムとは異質の力学圏を現出せしめていたはずだ。」