今、ある限定された場所で
限られた人間たちと共同生活を強いられている。
それぞれは、愛すべき人々だ。


だが、そこには、なんらかの浮き沈みがどうもある。
うまく行っていない人とうまく行っている人が同時に存在しているからかと
思うと、この浮き沈みにはきっと、固有の周波数があったりもするのだろう。


そうした変わらぬメンツによって繰り広げられるやり取りの中で
少しでも良い環境へと向かって行くには、どうしたら良いのかと
考えることもある。
意地やプライドがあったり、奢りや能力差もあるだろう。
集団にはどうしてもスケープゴートの役割を当てがわれる人もいたりする。


こうした膠着状態の中で、弾力性を失って行く人は
防衛的に振る舞っているように見えるが、守るどころか、擦り切れて行っているだけに
私には見えてしまう。弾む力がないならば、力は内に蓄えられないのではと思う。


弾むにはどうするかを考える。スーパーボールはなぜ弾むのだろうか。
その原理を人に応用できはしないか。自分に加わった外力を体全体で跳ね返すようなつくりじゃないといかんのかな。すると、自分はかくあるべし、なるものがあるとそこにだけ力が自由に流れていかぬ。
かくあるべしのようなものがちゃんと捨て去れるような状態になれればいいのだが、
そこまで肉体と心は自由になれるのだろおか。
弾まないのは、外に原理を持っている人なのではないか。それではそこから何も生まれない。


ぶつぶつと、考え、弾むがなぜ、そこまで美化されているのかと思うと、
リアクションのない、遅いは、死体のようだからかと思う。

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

ずいぶんと、だらだらと読んでしまった。
本書を通じて、客観的に相手を言語で記述することが
支配の徴候につながっていくことを考えた。
それが正確であればあるほど、記述された対象は身動きできなくなり
その言葉の内部でしか自己定義できなくなるようなことがあるだろうと思う。


同時に自然や暗闇を言葉で弁別できなければ、そこから身を守ることもできないのだろうと
も考えた。