邦画が見たくなった。
それもいい役者が出ているような暑苦しいような。


亡国のイージスのDVDがたまたま、置いてあり、うってつけとの思いで鑑賞した。
見た事あったな、と見始めてすぐに気づく。
改めて気づかされるのは、映画に出資されるためには、その映画が作られる根拠のような
ものががっちりと企画されているためだろうか、
高密度さから企画書のような印象を受けた。


こういう背後にある企画者の知性を押しつけられているような映画は
私には大変、暑苦しく今回の目的は成就されたように思う。


この映画の中で中井貴一の存在感が印象に残った。
自分は役者ではないので、分かりゃしないんだが
きっと役者の世界には「撃たれた時の死に方」というジャンルがあるはずだ。


吉田栄作は、西部劇の雑魚キャラの死に方を勉強した形跡が見られる。
きっと彼は言うだろう、今回の僕の役所は雑魚なのでちょうどいいと思いましたと。
しぶい俳優になっていっているのかなと思っていただけに、この撃たれ方はショッキングだった。
メインじゃない役の人間が撃たれる場合は、目立たずかつ、時間的な効率も必要なはずだが
その割には、その両方で失敗している。


谷原章介も、きっと吉田栄作にこの業界かっこいいやつならいくらでもいるんだ、といった
アドバイスを受けていたに違いない。雑魚が撃たれた時にどうやって死ぬか教えてやるなどと
言っていた可能性すらある。


その谷原は落下した爆弾を衝撃を与えないよう空中でキャッチした後、転落死という演技をする。
このシーンで、この映画はB級映画の資格を得たと言える。谷原は吉田栄作にかっこいいだけでは食っていけないと
既にアドバイスされているため、指示される通りにやったというのが本音ではないか。
役者たちはこのシーンについて、どう思っていたのだろうか、あまりに唐突なアイデアでぶちこわし感が
たまらない。


佐藤浩一だが、髪の毛が多すぎるような気がしてならないが
彼は今回、撃たれるシーンはなかった。
真田広之はどうだろうか。娘を陸に残し、海上自衛隊に勤めている男、妻は先立っているという難しい心境を生かした撃たれ方をしている。不様でも食らいつくような男の撃たれ方をしている。
肝心の中井は、重力を上手に使った倒れ方をしている。とても早い倒れ方である。
きっと練習もしただろうけど、あの感じはちょっとやひょっとじゃ出ないなあと感動する。


撃たれたことがないのに、撃たれて死んだ演技をするのは、大変難しい。
これはちょうど、ゾンビになったことないのにゾンビの演技をするのと同じである。