ここ何週間かの事であるが、
寝床についてからというもの灯を消す前に何とはなしに部屋を見回している。
すると本棚に収まっている北斎の画集が妙に気になってくるのである。


なに、昔上野の展覧会で買ったケチなカタログなんだが、
本棚から抜き出そうか、どうしようかと決心がつかないのだ。
無論、僕の部屋の中での事だし、気になっているなら見ればいいのだが、
いよいよ、寝ようとしている私にとって、その一手がことの外煩わしく感ぜられるのだ。
また、寝床を出た途端にその好奇の精神も止んでしまいそうな程のかすかな衝動である。
このもどかしさを書いて供養でもしようと考えたわけである。


我ながら、珍妙な思いつきではあるが
こう何度も寝支度をしている折に浮世絵師に気を取られては、
何かあるなと考えても道理のないことではあるまい。


北斎の旦那がいかなる人物かもどれほどの画力を持った絵師だったかも
実のところ、私にはたいして関心はない。
しばしば、当時の国の様子を知る民俗学的資料に出されたりすると
ああ、それは面白い着眼点ですね、などと対して思ってもいないような感想を
きっとこの絵師は現代で聞いているのだろう。


洋の東西を問わず、誰でもいいのだが、芸術家らが日本に関心があったという結節点に
案の定といった形で、ウキヨエが貼付けられている。ジャポニズムとか言ったエキゾチックなものへの関心の中の
一つにたまたま、ウキヨエがあっただけのことかもしれない。
私たちがコーヒーを呑んだからと言って、キムチを食べたからと言って
どれだけの異文化への関心があったのかは、甚だ怪しいものである。
なんらかの分析をしている勉学熱心な人々は、日本と関係があったと指摘することで
何か誇らしいものでも見つけた気分になるのだろうか。
彼らにはクッキリとした日本の輪郭が共有されているのだろう。


とすれば、私は日本に関心があったのかもしれない。
なぜなら、寝床から見える位置に北斎が収められているからである。
しかし寝床を出れば失われる程度の貧しい関心である。
その貧しげな関心をこうして文字として形式化することで
濁った泥水から大理石を作り出そうとでも考えたか。


私は日本から影響を受けている。
この感触は、ふわりと自分が揺らぐような不安気なものである。
寝床を襲った好奇心は、自分が日本にエキゾチックなものを見たい、
そんな深夜の白昼夢にすぎないかもしれない。