先日、大阪の祖父母から電話があり少しばかり話す。
会話もしゃんとしているが
やはり中々歳なのだろうと思う。



電話を切り、はて考えたことは我ながら新鮮なものだった。
ボクらは誰であれ、はじめて今を生きているのだということに驚いた。
おじいちゃんやおばあちゃんは、はじめて歳をとった人生を今生きているのだ。
これはなんか不思議である。


僕は昨日の僕がふらりと部屋に入って来たら、どうやって昨日の僕と今日の僕を区別するのだろう。
いつ、昨日の僕が今日の僕の部屋にのっそりと入って来てもおかしくない。
それくらい昨日と今日は不確かな差しかない。
一日くらい、昨日と今日がひっくり返っても私には分からないだろうと思う。
いつものように、用を足しにトイレに行って戻ってくると、今日の僕が既に部屋には座っているのではないだろうかと
思う事がある。



今日の僕は、今日の僕である自信がない。
僕なら今日の僕の部屋に入って行って言うだろう、僕が今日の僕で君は昨日じゃないか。
すると僕は言い返すだろう。
冗談じゃない、そっちが取り違えているんだ。僕こそレッキとした今日の証人だ。
こんなトンチキなやり取りなど僕がするだろうか。


私はしかしそんなことになったら、昨日、あるいは今日の自分に何を尋ねるだろうか。
僕なら今日の僕であると一方に主張されたら自信をなくすかもしれない。
それほど、今日の僕であることに拘りなどないのだ。
君が今日だと言うのなら、僕は昨日でもいい。
でも君が今日である確かな根拠が知りたい。僕と何が違うというのか。


今日の僕は言うだろう。
僕は昨日あったことを知っているけど、君は知らないだろう?と言うだろう。
確かに昨日の僕は昨日、つまり彼の担当の日をまだ経験していない、もしくはしている最中であるため
昨日のことを知らない。
じゃあ今はいつなんだろう。同じ時間の中で僕らはこうして会う事ができるのだろうか。


時間は単一方向に流れるものではなく、シュワーっとした泡泡のようなものかもしれない。
ぷすぷす、ぷすぷすいっている。
僕は後ろ向きだと言われたとしても、明日よりも昨日のほうが関心がある。
私にとって明日は常に今日なのである。ゆに昨日のほうが明らかに気になる存在である。