先日、図書館の近くだと言うので青木淳の新作を見にいった。
青木さんは建築家の中でも作家のロマンスやナイーブさにまだ酔ってる感じがする。
3フロアあるスタジオは全部同じ平面と内装で明らかに食ってる。
見にいくと、いかにも青木淳といった建築。
リン酸処理した溶融亜鉛メッキをアクリルウレタン塗装しているのだが
このウレタン分の表皮が青木淳ぽい、とらえどころのなさをよく表している。



パラペットに立ち上がりが施工では通常は600程度は必要だが
ここでは、側溝が切られているだけで立ち上がりがない。
細かいが、関係者用の外部階段の冊と腰壁の隙間に作家的なものを感じる。


フェロドール塗装というのはよく知らないけど、青木淳っぽい。
見てないが青森美術館の弁明のような感じがする。


青木が特に配慮したというのが、部材のモデュールだそうだ。
外観だけの時や室内、駐車場において一つの建物の部分ごとにしか見る事が出来ないのを
不謹慎なモデュールを与えることで目眩を与えているということか。
グラフィカルなドットによるパターンや長尺シートの目地なしなど、ノンスケールなアニメ的狂気から
周囲にある部材を意識し、都市の中で建築が意識されているのは、青木さんらしくないように思える。
アニメが都市へ溶け始めたか。

建築史

建築史

著者 藤岡通夫、渡辺保忠、桐敷真次郎、平井聖


保忠先生と言えば、石山修武の師匠の一人である。
日本建築史のみ通読。


古代、中世、近世の括りをとっている。
日本建築史はほぼ、技術史のような形で読み取る事が出来る。
というか建築史はもともと技術史なのかもしれない。
宗教なども確かに登場するのだが、思想がダイレクトに建築に表現されているものは
案外、少ないように思える。それこそ、武野紹鴎千利休が登場すると漸く、そんなものが見えてくる。
茶室は敬遠していたが、利休によって露地の発見がされたというのは知らなかった。
好みというような怪しい感覚器官が歴史の中で妙な甘さを持って見えてくるが
近世というバックがあってそうした個人が成立したと整理されるのかもしれない。
私たちが個人的な感覚によって何かをやったところで、これだけ情報化社会を迎えているのだから
塵のように消えてしまうように思える。選ばれた個は歴史化される時代じゃないのかもしれない。
全員が群衆でありながら、個としても振る舞える奇妙な時代である。権力すらすでに怪しい。


通史を見ていると、ビルディングタイプが本当に少ない。
住居と神社、寺院、くらいなもので、倉庫もあるか。
城郭、茶室、能楽堂、学校、霊廟のようなものが出てくるのは近世になってからだ。
だが、民家というように、大雑把な括り方でしか歴史化が難しいのかもしれない。


今は映画館や病院、工場、空港、図書館に美術館、マンガ喫茶に百貨店と本当に多い。


建築家がアルミニウムで建築を作ったり、コンピュータによる原理でモデルを作ったり
または、インターネットによる情報管理の言語で建築を作れば、これまでにない建築が作れて歴史に残るという共通認識があるように思える。
ありえない立体を実体化する際に暴力のように出てくる部材断面には確かに過激さはある。
が、その歴史に残るというイニシアティブが近代的な感覚ではないのか。
自分が肌で感じたことは、現代的であるというような自信が傲慢に思える。
現代性というのが自己の存在理由のように振る舞うのはナンセンスな気がしている。
非分析誘発性を計算した打算でありゴマスリだ。それを政治と言ってた時代は一昔前ではないのか。