同期の連中の噂を聞けば、不動産へ行ったり、証券取引を始めたり
海外へ逃亡、大学へ戻ったり、博士から脱出不可能、大手設計部へ避難などである。
そういう教え子を見て建築家の先生は何を思っているのか。
設計事務所で戦っている人はマコトに奇妙な事に私の友人には多いように思える。
類は共を呼ぶのか、半ばゾンビ化しているに違いない。
太陽光を浴びると消滅してしまう身体である。


ここではそんなあなたの心の隙間をお埋めします。


落ち着いて考えるまでもなく、食っていくためには仕事が必要である。
そのためには資格がいるのだけど、それでも仕事があればなんとかなる世界でもある。
仕事があるというのは、一つには人脈、一つにはキャリアや実績から来る信頼、後は人柄、能力もあるだろう。
無論、やる気が一番必要だと思う。
メディアで発言力がある人ならば、仕事が依頼されやすいかというとそうでもない。
雑誌で表紙を飾った友人の建築家は一件も依頼が入らないと言うし、今は病気がちになっている。
乾久美子は仕事のない建築家として有名だが、彼女はそれをイタイという言語で表現していた。
大きな仕事がそのうち入るに違いない。言語化できている人から脱出していくのは、村だけではない。
私もゾンビから蘇る日も近いということか。


私は勤務している時に痛烈に感じたのは建築をもっとたくさん見ておかねばということだ。
建築にしらけている人は、こう言っては何だが建築をあまりに見ていない。合理化して見えなくしているわけだ。
雑誌に載っているものなんてただの紙切れである。スイス系のデザインなんかにうつつを抜かしても無駄である。
お金を稼いでたくさん建築や都市を見にいくというのは大切なことだろう。勉強なんかよりよっぽど大切だ。
遊んでいると後ろ指をさされるのが落ちだが、これは間違いあるまい。


今日は原宿のギャラリーを近くを通ったので見学する。
建築を見る目が大分変わったなあと実感する。
かなり過激なことをやっていることに改めて気づく。
プロポーションやディテールデザインがすごい。
ピーコンなしのRC面、これぞモノシリックなコンクリートである。
3m内外のアングルをぐにゃりと曲げて手摺にしている。ガラスの大きさの感覚がやっぱり上手い。


友人の修士計画を手伝いながら、2ミリくらいのペラペラのプレートで階段のCGを作っているのを見て
こういう風に目が見ているのかと不思議な感じがした。


図面を究極的に美しく描けるような人こそ、建築家になるに相応しい。
研ぎすまされた自分でもってその図面を描いているのであれば、批判されてもやればいい。
ただ、落ち度は認めるべきだろう。
言語化、形式化によって私たちは初恋をボーリングの球に変えるのであり
その時ようやく、初恋するのである。