自動販売機の前に立ち、私は財布から小銭を取り出し
投入口に一つずつ、百円玉が先の時もあれば、十円玉が先のこともあるわけだが、
チョリン、チョリンと銀色のプレートに刻まれた溝に放り込むだろう。
この時間は刹那的ではあるが、祈りの時間だと言える。


すると、乾いた音をたててコインが釣り銭口に戻って来てしまう場合がある。
透明なプラスチックの前掛けに指を押し込み、貨幣を失格したコインを取り出し、
また先と同じように投入と祈りを私なら試みる。
これは何度かやると、祈りが通じる場合もあれば、
何度やっても無理そうな場合もある。


そういう時、私たちは小銭を取替、新たな刺客を送り込み、万事ことを進めるわけだが
その失格したコインがその後、どうなったのかはまるで覚えていない。
よく考えてみたまえ、貨幣として認めてもらえなかったコインである。一体それはなんなのか。


財布はそんな不適格なコインばかりが残ってしまいそうだが実はそうはならない。
当該自動販売機以外においては再び、彼らはキャピタリズムの大海原の波となっていくのである。


私がここで取り上げたいのは、自動販売機のセンサーがそれを十円玉だと認識しなかった場合に
そういうこともあると、至極当然のように別のコインに選手交替している自分がおかしいことをしているのではないかと
思ったことである。


電子マネーが発達して、こうした自動販売機の嘔吐は今後はなくなるかもしれない。
だが、私たちはこの機械と資本の不和になんらかの、甚大なメッセージを受け取っているように思えてならない。


手応え十分な缶の吐き出される音と、よく冷えただちに汗をかき始めるアルミの表面と
私たちは突然遭遇することになる。不可思議である。