GA ギャラリーのサイトで
二川幸夫の日記というのがあるけど
ここで建築の動画が載っている。
画面や尺など、勉強になる。光の選び方がさすがだと思う。
クリアな映像が撮影されているのではないでしょうか。

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

舞台の上のヴィネツィア
アントニオの大聖堂 を読む。
ミラノ 霧の風景が読み終わる。




Carsten Nicolai が撮影したもの
75Hzで振動するミルクだという。

http://www.carstennicolai.com/

http://www.nationalgalleries.org/media/source/richter_gehoeftfarm.jpg
Gerhard Richter の絵画
この構図にはかなり驚いてしまった。
久しぶりにRichterの作品集を見る。
設計しているときに、Rothcoを言語化しろと言われ、
考えていたができたものは、どちらかといえば、Richterのグレーシリーズを私は想像した。
ロンドンで見た展覧会でも、既に言語化の過程を修了したものに見えたが
今再び見ると、言語化が唾棄されていくような過激さを感じる。


虚をつかれたような構図にはスナップショットを想起させる。
またSMが言うように、それでも構成を選びとっている感じがある。


スナップショットのありふれた光景を
ありふれた光景だと分かることにひとまず驚いた。
小学校の遠足の写真を自分が写っているものを取りあえず買わされた記憶が蘇る。
箸を持ちながら、野球帽を被った少年がピースをしてみたり、カメラに気づかぬ女学生と笑っている男たち、
わけのわからないバーベキュー、ガチャガチャして色に統一感のない水筒をぶら下げた生徒たち。


虚をつかれた感じがむしろ現実とダイレクトに繋がってくるのは、言葉としておもしろい。
スーザン・ソンタグは写真は「記憶の道具というよりも、むしろ記憶の発明」であると言っていた。
この言葉がリヒターの出来事の特質を指摘していると大橋浩美は言っている。


リヒターの展示では、打ち上げられた記憶を見ているような感じがした。
見終わった後に、心細い感じがしたし、私たちの記憶にもそうした不安なものを感じた。
内面から私を形骸化してくるような恐怖が、彼の作品によって喚起されたように思った。





携帯電話が見つかり、今日復旧した。
数名からの連絡をシャットアウトしていた痕跡があった。
この場を借りて、ご迷惑お掛けしたことを、お詫び申し上げたい。


今日は、アイデアをいくつか考え、発展があった。素直に嬉しい。
イメージがうまく表現できればいいが、うまく行くのか心配。
実現能力がなければ、なんもできないのと同じ。
唸るイメージをドライブさせたい。
久しぶりなので、少しソワソワしている自分が楽しい。


ここで修行しなくては。
http://www.youdraw.com/