Antonio Gaudi i Cornet―アントニ・ガウディの自然・技術・芸術

Antonio Gaudi i Cornet―アントニ・ガウディの自然・技術・芸術

オーローラ・クイート
クリスティーナ・モンテス 著


カサ・ビセンス、キハーノ邸ーエル・カプリチョ
グエル別邸、サグラダ・ファミリア聖堂、グエル邸
アストルガ司教館、サンタ・テレジア学院、
カサ・デ・ロス・ボティーネス、ボデーガス・グエル、
カサ・カルヴェット、コロニア・グエル教会、ベリェスガール
グエル公園、ミラーリェス邸、マジョルカ島パルマ大聖堂の修復、
カサ・バトリョカサ・ミラ、アルティガス庭園
ほとんど、名前さえ知らない建物ばかりだが、どれも見た事がある。
だが、どれもが新鮮である。


ガウディは僕の中では、いつもカッコに入れて形式化してあった。
それなりに関心があったわりに敷居の高さを感じ、積極的に知ろうとはしなかった。
歴史の文脈の中で、中央集権的に歴史が形成されていたそれまでから
僻地(と言って良いのかわからないが)での爆発のようにして起る建築の新しい潮流
ナショナルロマンティシズムとかそう整理されるときに、どうもガウディは据わりの悪さがあった。


今回、改めて見ると、情熱というよりはずっとか理性を感じた。
自然のモチーフやゴチャゴチャした感じがカッコの外からは見えたのに
今一度眺めてみると、それがまるでうるさくないことを発見し、端正さすら感じた。
建築を設計することにガウディが同格で存在していることに、いくらか救いを感じる。
こんなことが起きる可能性があるのかと。


爆発、そう表現したことは、間違いではないと思う反面、
彼の造形を見ていると、画家が画板に情熱で描きなぐったような印象とはずいぶん違う、
やはり理性的な試行が感じられ、その意外さを発見したことに驚いていない自分を発見する。


彼が超がつくほど、一流の建築家である事を見せ付けられ、
小さなゲップをして本書を閉じた。




自由が丘に行くとゼネコンに勤める友人TMとHTに会う。
どうやら会社でコンペに出すようだ。
近況を伺い、他の友人の話も色々聞く。
実務でどんなことをしているか、どんなものが本当はやりたいとか
そういった話をが聞けてよかった。
軽く話した後で、今日は切り上げ、地域センターの図書館で学習しようとするも
昨日から読み始めた須賀敦子が気になって、読み切ってしまった。
おかげで学習はあまり捗らず。


その足で、新しくまた彼女の記したものを物色しにいく。
あまり、一日に読みすぎないように注意しなくてはならない。と戒めるもまた読んでしまいそうである。


地域センターには拓けた所があり、そこで幾人かの家族連れが休日なのだろう、
子供と遊んでいる。
ボールを投げると拾いにいく子供は、これ以上楽しいことはないと言った表情である。
ボールを追いかけることは、これ以上楽しいことはないのだろうと確かめる。


ボールってなんでしょう。
ぴょんぴょん跳ね回っていますね。


大抵のイマドキの大人は、mixiやブログといったネットワークを持っていて
そこを世間の姿だと考えている。
しかし、夢中でボールを追いかけている子供に、なにやってるの?と聞かれ
mixiだよ というのは少し後ろめたいものがありそうではある。



実るほど、頭を垂れる稲穂かな
謙虚になることが大事ですね。横柄な人は実りません。


ユルスナールの靴 (河出文庫)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

須賀敦子 著


私は不勉強がたたって、マルグリット・ユルスナールと言っても本当に名前しか知らなかった。
須賀は巻末の「あとがきのように」という覚え書きに記している。


人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは
隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。


須賀にとってユルスナールとは後者であり、
世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を熟成させていく過程に惹かれたと言う。
本書は、ユルスナールと須賀の生きた軌跡が交錯しながら、一枚の織物へと広がっていく。
両者が滲んでいるような感じが読んでいる間もする。


ユルスナールを追うように、ハドリアヌス帝のヴィラ・アドリアーナに赴き、
その編み上げられたいくつかの思念、記憶が柔らかに場面を変えていく様子は、
映画や写真、絵画では描写できないような大きなうねりのようである。
編み上げるという形容がこういう事だったかと、今更のこと感じ入る。
文体が他のメディアを媒介させずに作り出される、テクストとしてのテクストであろうか。
色が樹木や人の表情が映像化せずに私に流れ込んでくると言えばいいか。


波打ち際の波のように泡を立てながら、スサーっと普遍的な振幅を繰り返しているような
そういう文章で、私が赴けば、またきっとこの周期を繰り返しているのだろう。




Nendo

Nendo

nendo の作品集。
結構おもしろいと思って、依然購入していたのだが
今見ると、かなりイマイチだと気づく。
センスの良さをマテリアルの感度が足を引っ張っているように見える。
チープさが目につく。


イメージが即効で無価値になる事を痛感し、恐ろしくなる。