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危機感が募って来ている。
勉強量が全然足りないように思えるが
やっぱり、再三になるが、やるしかない。
帰りの電車で、罵る女がいた。
「あの子は、創造力がないわ」
「結婚していないとカワイソウとか、子供がいないとカワイソウ
しっかりした教育がうけられないとカワイソウ、そういう判断基準しかないんだ、あの子は」
誰かを罵っているが振り向くと三十路も半ばの女性。
薬指はすっきりしている。
自己正当化がコダマしているように聞こえる。
最近、女の子と話すと皆同じような顔をしている。
すでに産気づいている。
正直、子供ほしいっすみたいな顔をしている。
だから、会話にならない。
病院で生んでみたら、子犬が出て来たらどうするのだろう。
それはそれで、かわいいのだろうか。
女は制度である。
スタイルとリアリズム、
ある種のリアリズムは、現実逃避を回避するためのものと見える。
リアルとは回避によって得られるようなものだろうか。
スタイルを獲得していくことにリアリズムはあるのではないだろうか。
とはいいながらも
しっかりと生きたい。
スタイルでもリアリズムでもどちらでもいい。
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福田和也 著
ボクらの親の世代がもっとも、感覚的にはそうした危機管理能力が欠落しているのかもしれない。
その子孫の私らも同様である。
私たちが受けた教育の中にイデオロギーを育むようなものはなかった。
そこにはトラウマしかない。
突き動かすものがなく、それを慰めてくれるのがアメリカ文学を研究した村上春樹とはよくできている。
バトルロワイヤルが過激であったのは、武器を持つことを視覚化したからだろうか。
そうではない、武器を持つことのリアリティの無さを示したからだと思う。
「反解釈」と「《キャンプ》についてのノート」を読み直す。
芸術鑑賞をしている時、私たちは何を眺めているのか。
何に心打たれ、ひっぱられ、熱狂し、興奮するのか。
その表情、色彩、構成、タッチ、サイズ、質感、物語?
批評を行う間際に私たちが鈍感な言語でそれらを捕まえてしまい、
あっと言う間に、その対象との間に深い溝を作ってしまう。
これは悲劇である、目の前にある作品、限りないものを見ていながら
自分ではこれをリンゴだと形式化し、それ以上見ようとしていないのであるから。
だが、言葉は通じていなくとも、目で何かを沈黙(通じていないのだから)の内に
私たちはなんらかの意思疎通を行っている。
それは、権力によって引き裂かれた恋人同志のような、キッチュな表現だが、を彷彿させる。
《キャンプ》について考える。