もうそろそろブログは閉めよう
と思いながら、今日も更新することになる。
弱いのか、強いのか、どちらなのか。


取り立てて、結果や成果が載せれていないのが至極残念だが
コンペなど、作ったものを載せていければ、おもしろいだろうと思う。
もう少し、各自の互換性を作れればいいのだが、そう簡単ではなさそうである。
昔、TTがコメントしてくれた言葉で
「貿易収支はとれない」
というのが思い出される。
行き先も分からず、作物を送るため船を出し、着いたかのか、沈んだのか。



都市のかなしみ―建築百年のかたち

都市のかなしみ―建築百年のかたち

鈴木博之 著


普段私たちが当たり前に見ていることから
これほどのテクストが紡ぎ出されるのかと、鱗がおちる。
鈴木のテクストには挑発もなければ、衒いもない。
安定した着実さがもたらす、飛躍が読むものを興奮させる。


客観的に紡ぎ出された城郭が
主観に拠ってストロークを描いていく様子に、鮮烈な思いで
本書を閉じた。
是非、読まれたい。


西沢大良 1994‐2004

西沢大良 1994‐2004

西沢大良 著


西沢のコンパクトな作品集である。
彼がどんなことを言っているのか確認しようと思い、眺めた。
今になって思うが、建築家が原理を育んでいくのには、どうした経緯があるのだろうか。


西沢は現代の都市を立脚点にしながら、
建築の立体へと繋げており、その背景に機能主義への批判が見え隠れする。
良心的な建築家がもし、仮にいたら機能的なものを思考するとでも言うのだろうか。
ここへの欺瞞に西沢は気づいている。


建築を議論する際に、根拠となる手だてに確実なものを求めようとし、
意匠への批判からたどり着いたところに「機能」だと正義を装う人間がしばしいるが
戦争反対と言っているような、手応えのなさを感じていた私には、共感する部分もあった。
それが「機能」であるだけにリアリスト然とふるまう感じが嫌である。


Shuffled―古谷誠章の建築ノート

Shuffled―古谷誠章の建築ノート


古谷誠章 著


古谷先生の考えていることを記したもの
上の世代がよく分からない固有の解答を求めている中で
きっと氏はよく分からないと、顔をしかめて見ていたのではないだろうかと想像される。
それだけに、刷新するような軽快なタッチで本書も記されている。


単語の一つ一つを丁寧に調理していくコックのような文体に触れ、
久しぶりに先生の闊達な様子が思い出される。

ゆるやかにつながる社会

ゆるやかにつながる社会

中崎隆司 著

建築ジャーナリスト、中崎氏が若手建築家と対話をしながら
各自のプロジェクトと考え方をまとめ、報告したもの。
ゆるやかに繋がる。
集まってもつながらない。つながってるけど集まらない。
これが本書のキーセンテンスとなっている。


乾久美子、平田晃久、藤本壮介、中山英之、石上純也永山祐子石黒由紀など
若手は妹島事務所、隈事務所、伊東事務所、青木事務所卒の人間がほとんどであった。
批評が言語として既に共有されているというのは、不気味である。



構築環境の意味を読む

構築環境の意味を読む

著者 エイモス・ラポポート


著者名をずっと、ララポートだと思っていた。
環境心理学的に人間の行動原理を研究しているものと言える。
どうにか環境的なロジックで分節を行えないかと考え読むと
中々、いいヒントがある。


依然、アフォーダンスを機能のスリープ状態と考えていたが
ここでは、暗号解読と言っている。
こうした環境に潜んでいるものを解読していく作業はまさしく考古学的であり
未知であるものに満たされている事に幸せを感じさせてくれる。


行為が視覚化される以前からそれは、被験者に解読を許すものでありながら
緩やかな制御を与える。
そこには、形がなんらかの意味で私たちとコミュニケートしてこようとしており
それを本書では非言語コミュニケーションと言っている。


精神的本質は言語的本質において伝達されるといった言葉が思い出され、
非言語がここではその意味をより発展させてくれる。


具体的には、設計の中で至らない点があれば、後で鳥の糞注意、とか段差ありみたいな
言語として注意を促すが、これを予め形で伝えようという発想である。
ドアノブの形状一つで押すのか引くのかが分かるようにするというのもこの範疇である。
言語を減らす、そういう軽装備化は良さそうに聞こえます。