敵が出現した。
こいつを倒したい。燃えてきた。
敵がいるとやる気が出ますね。





あっと言う間に、6月となった。
残る財産としての時間は、刻々と費やされ、すり減っていく。
やるべきことは、結果を確実に出すことである。
プロセスは全員が共有している。がんばっていない人はいない。
故にがんばっていなければ、どうなることやら。


友人と話せば、結婚の話、子供の話、新居の話、親の話、収入の話が主立ってくる。
それを隠すかのように、食事や映画について話し合い、
ノスタルジーの中をへらへらと笑うが目は笑っていない。
学生時代から、どういう建物が建てたいというような話をする人は随分、居なくなっており
「大きな建物」、「地図に残る建物」が主立ってくる。そこにやりがいを感じると
いつのまにか、就職活動用語で自己を強化している。
どんな本を読んでいるかと尋ねれば、建築「以外」のものとやたら「以外」を強調してくる。
確かに、以外の本を読むことは構わないが、じゃあそのタイトルを言えば済む事である。
そこには、やはり「敗北」をひた隠しにしようという空気が淀んでいるように見える。
相手の目を凝視すれば、敗北しているかどうかが分かる。


一方、アトリエで働くニンゲンは、痛い。しかしこれは状況がである。
精神的な明るさをもった人はそれを跳ね飛ばせるような感じもうけるがかなり稀である。
アトリエの労働者は、一般的に暗く、世間知らず、怯えているながら、ゲージュツやクーカン、ここの広さはイイデスネ、ウケケといって
怪しい手品師と大差ない。


30歳ぐらいになると、「敗北」の合理化が自動的に始まる。
二川氏に説教されたことがある。
親のすねはかじりつくせ、自分の家族は諦めろと鬼のようなことを仰る。


しかし、赤ちゃんに見つめられるとあまりにまぶしすぎる。
太陽光を浴びたヴァンパイアのような気分になる。