大抵の人は持ち物を持っている。と気づく。


だが通勤にどれほど鞄が必要なのかどうか。
ポータブルになるにつれ、人は新たにモノを持たざるをえなくなった。
どれもキオスクに売っていても良さそうな
家の玄関のスタメンたちを持つために
鞄が必要となっているのは、どこか本質的ではないようなきらいがある。


カルチャーにはモノを持つことで、独特な時間を作って来たものもある。
スターバックスのマイマグカップ
昭和の豆腐屋を思い出させ、
プレスリーは、クシをポケットにいれていたのに
私たちは箸を懐に持ってはいない。


吹奏楽で使うような大層な楽器は
ケースが特殊な形状をしていて、ラッパやバイオリンが入っていることがすぐ分かる。
殺し屋の中では楽器ケースの中身はライフル銃というのが定番となっている。


鞄を持たない美学もいいけれど
鍋やボーリングの球を持っていますというほうが、何か新しい。
歯ブラシや洗顔を持っている人はそうしたセンスを持っているように思える。



住宅特集の中谷礼仁が書いているワンダリング・セブンティーズがおもしろい。
70〜80年代が記述されることに新鮮な過去を発見するからかもしれない。
室伏次郎、宮脇檀、鈴木恂、長谷川逸子のものを読んだが
あの時代の住宅は、今見ると相当おもしろく見える。
熱気が暑苦しいと思っていたけど、ウェザリングによってか優しさすら感ぜられる。


そういえば、ある建築家が自作のパラペットを切断した話をどこかで聞いた事がある。
一度打ったRCを耳を切り落とすようにして、ちょん切ってしまったのである。
こんな行動が私たちにできるだろうかと、その過激さに私は胸を打たれたのを思い出す。
予め、そういう問題にならないように設計しろ、というのがナンセンスで
むしろ、ええい、鳴かぬならちょん切ってしまえ、パラペット 。
うへーである。時代は精神を育むなあと感じた。