通史といった単一の語りによる歴史には
偏りがどうしても介在し、ヒロイックであり、残酷である。
エディトリアルデザインのレベルでは扱えないようなトラウマを
歴史は扱っているためであり、
そこに書かれなければ、彼らはいなかったことになるから、そう感じるのである。


単一の時間を持つという意味で歴史は映画的である。
撮影する行為はカメラが捉えた時間を剽窃することであり、
スペクタクルに仕上たところで私たちが見ているのは窃盗された時間である。
カメラワークによって歴史はフレーミングされ、モンタージュされている。


ロンドンはトウキョウより8時間遅れている。
それで私はなるほど、そうかと分ってしまう。
地球が太陽の廻りを廻っているだけで、歴史が生まれ、映画が撮影されていくのは
いと、ふしぎなり。



モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで

モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで

ニコラス・ぺヴスナー 著
白石博三 訳


展開ってタイトルが妙にサボったい。
ラスキンの言葉から始まり
ウィリアム・モリスを経てモダニズムが醸成されていく過程を
イングランドを主軸としながら、アールヌーボー、絵画、産業技術をたどりながら
グロピウスまで展開している。


モリスの芸術観は今日にも広く共感されるところもあるように思える。
ラスキンにしろモリスにしろ、産業化による機械の登場には拒絶反応をしめしており、
それゆえにか、手工芸、職人といったものへ理想を求めている。
生産方式が変わることで質がリセットされ、
クオリティを以前の生産方式でもって高めようとすると醜いものができていく。


新しい精神でもってようやく、時代にふさわしい造形が達成される。
そうした価値観に基づいて、建築の作家に焦点をあてながらこの歴史は描かれている。
その時代にふさわしいという「時代」を果たして共有しているのかここに偏りがある。


現代では歴史を坂読みも行われているように思える。
新しい技術で作ったもの、表象するものは歴史に残っているかもしれない。
だが、その歴史はやはり近代の歴史なのではないか。