今、女の子と建築の話をするのが楽しい。
何か論拠を求める以前の建築が本来的にあるはずだという話を
彼女はしてくれた。
その熱い話にじっと聞き入っていた。


私は、彼女の言っていることを言い換えて
形を説明する言語を持っていないということだろうか
と聞いてみたところ、共感してくれた。
しかし、再度、何をやっても許される状況におかれたとき
それを実行する意志をどう持ち得るのかは、また同じように繰り返される。


言語による拘束は、当然あるだろうけど
やはり、得体のしれないものというのは、言葉が見つかっていないだけでもある。
だが、彼女の言う事にすごく共感し、またそれを乗り越えられないジレンマを感じる。
歴史を勉強すると、案外建築って時代を抜きにすれば
わけの分からないものも多く立っている。


今日的に見れば、木造の密集住宅などというものは
法的にもあるが、燃えたらどうするのという問題解決が当然のように出てくる。
昔はそうした危機はなかったし、大火事や震災の経てのトラウマがそれを
倫理的に排斥している。


ジェネレーションギャップが問題と考えている。
つまり、私たちがやっていることを批評する言語がまだ見つかっていないため
あたかも、それが良くないように見える言語でもって、視覚を矯正されている。と感じる。
もしくは確かにそれを突破するような作家が今いるようには感じられないのも事実のように思える。