二十億光年の孤独 (集英社文庫)

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

詩人 谷川俊太郎


書棚の傍らにおいてあり、本の整理をしていて見つけると
いつも少し読んでまた、書棚の傍らに戻すこの詩集は
またしても目についたので、パラリと少し読んでしまった。


「私にとって必要な逸脱」というテクストが印象に残る。
ふたつこれを読んで思い出されることがあるので記したい。


ひどく、建築の言論にうんざりしていた男がいうには
建築をやっている人は難しい言葉を使おうとするというものであった。
もっと「わかりやすい」言葉でそれを説明するべきだといった主旨の事だったと思う。
男は、そこに谷川の言葉を引き合いに出していたように思うので
この話が思い出されたのだと思う。


私は男に完全に同意しつつも、それは違うと言ったように記憶する。
なぜ違うと言ったのかがうまく説明できないのだが、今思い返しても、
あれはあれで私なりに正しい事を言おうとしたように思う。


実は他にも広告をやっている友人と議論した時にも
物事に対峙したときに言葉が溢れてくるべきではないかと聞いてみたことがある。
これはこれで確信犯的に聞いた記憶がある。
言葉は短くてそれで多くを与えるものでないとダメだと彼はいう。


私はこの両者の「正義」によって退治された悪となったわけだが、
やはり、そうなのかがまだわからない。
彼らの「正義」っぷりが胡散臭く感じた為に私は悪を振る舞いたくなったと言える。
そうした「正義」のようなものではない、葛藤を私は谷川の言葉から感じるし、
彼が言葉に対して、不正直である自分を発見していることに、共感した。


「記念碑と建築家」
著者 木下直之


明治期に各地に建立された記念碑に建築家が
どのようにコミットし、さらにはそれらが建設される背景と
技術的地盤がどう形成されていたかを考察してある。
記念碑が建設される動機は次の二つに分類できる。


人の事績を記念するか、出来事を記念するか。
その背景には、戦没者慰霊碑のごとく、戦争にまつわる死に関するものが
非常に多いようである。
このモニュメントが次々と建設されていく様子は
それらが個々に持っていた動機とは別に、近代化の波及のシンボルだと見えるように思えるし
鈴木博之がこの論文を最後に持って来ていることもそうした意図があるように思える。


都内の要所を歩いていると、必ずといっていいほど、こうした記念碑を目撃し
意識に昇らず、やりすごしてきたように思えるが
大隈氏廣による有栖川宮公園にある有栖川宮幟仁(たるひと)親王のモニュメントや
塚本靖によるベルツ、スクリバ像、西郷隆盛
山東熊による楠木正成像など、
プロポーションや素材、建設技術、彫刻に幾ばくか、関心を持って眺められる。


卒業論文の時に、テラーニのモニュメントを多く見て来たが
それらがどう論じ立てれるのかが掴めなかったが、こうした手つきで見る事ができるのかと
非常におもしろく読めた。


夜明けの家 (講談社文芸文庫)

夜明けの家 (講談社文芸文庫)

吉井由吉 著

「けんちく」の話ばっかり読んでいると頭が腐るぞと釘を打たれ、
読んでみたが言葉が頭に入ってこない文章に思える。