最近、ル・コルビュジエについて
書かれた本が重なっているため、
彼のドローイングを図版として眺める機会が多い。
よくも、一人であれだけの事をやったもんだと関心してしまう。


彼がニーチェを愛読していたと知り、少し意外な感じを受けた。
なにをするにしても、彼の理論とは別の側面、
ディオニソス的なものを、私たちも解放させなければと
そんな思いにさせられる。


そんなことを考えながら、ランドスケープの起伏をのしのし歩いていた。



マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ

マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ

ビアトリス・コロミーナ 著
松畑強 訳


1994年に出版されたものの訳である。
これは昨今とやかく、言われている一つの言説
「公共性と私性」について考えさせるものである。


「ピクチャアウィンドウ」が持っている二つの機能に
外部を内部で消費するというものと
内部を外部へディスプレイするということがある。


私たちは見られないことで私性を確保してきたが、現在も果たしてそうだろうか。
見られる社会において、にわかに伝統的な意味での私的なものが
均衡をやぶり、融解している現在において、
本著は住居、とくにル・コルビュジェアドルフ・ロースを題材に展開し、
それぞれが、内と外の境界に対して異なる戦略で接近していく。


ロースのモラー邸のあたりの分析は非常におもしろい。
アーカイブ」と「歴史」を分け、
前者を私的なものとし、後者を公共的なものだという。
私たちが持っている公共性が仮に失効し、新しい文脈を待ち望んでいるにも関わらず、
失効した公共性でもって、現代の身体を裁こうとする時、なんらかの断絶が起こってくるのではないか。



公共性は、先日の東工大のシンポジウムにおいてもテーマの一つとなっていた。
批評が機能していない時に、作品は成立しないという話と
どこかしら繋がってくる。
今なにを見てもおもしろくないのは、
有効な言論のない創造が横行しているからだと思える。