ただ電車に乗った日

今日は、ただ電車に乗っただけであった。
どこかへ行こうとしていたのだが、ぐるぐる乗って
帰って来てしまった。
こういう日はそんなにはないので
書き留めておこうと思った。


どこに行こうとしていたのか、
確か日本刀を展示している博物館だったはずだが
電車に乗っているうちに開館時間を過ぎてしまうという
大へまをしてしまい、仕方なくというか、
それ以外にやることもなく本を一通り読み
やれやれと戻って来てしまったのだ。
「なんたる失策であることか!」



さて渋谷駅に降りる時のちょっとした快楽があるので紹介したい。
渋谷駅に到着すると
最初に進行方向の左側が開き、ぞろぞろと人が排泄されていく。
しかしそこで、便秘ぎみの私は右が開くのを待つ。
左が閉じた瞬間から右が開くまでのその刹那、
カステラ状の空洞に身を委ねることができるのだ。
ガランとした誰もいない車両の窓の外は
排泄された人々と、次のうんこ志願者で
埋め尽くされている。これが快感なのです。


実は誰もいないと言ったが、
便秘派の市民は他にも何人かいる場合がある。
そういう時に、仲間意識が湧くのです。
便通に秘め事のある人々


こういう一日は私の中で、宝石のような輝きを持ってくる。

網野善彦
宮田登 著


ボスニア・ヘルツェゴビナコソボ
チェチェンルワンダといった地域で「民族紛争」が
しばし報道されている。


第四章「民族と民俗」が興味深い。
「日本建築史」という言葉が果たして有効かという話を
中川武教授がされていたことを思い出す。
ここには極めてデリケートな問題が潜んでいる事を
本書でも考えさせられた。


民族がなにかもよく定義できない現代に
紛争や大屠殺が起きていることがとても危険な状況だと思える。
なにを持って団結し、境界をひいているのか。
本書でも、民俗といった時に国家という領域規定が
両断してしまうことが問題視されている。



合衆国の新しい大統領に
過激な事件が起ってもみたら、そうした拠り所を
皆求めるようになるのではないかと危惧してしまう。
「国家」のような急速に作られたイデオロギーによって
新しい線引きで皆バラバラになっていくのだろうか。


これがデリケートだと言えるのは、
カテゴリー分けできない人々を杓子定規で裁断してしまう無知が
そのまま、恐怖になっていくからだと思う。