君子危うきに近寄らず
- 作者: 平田オリザ
- 出版社/メーカー: 晩聲社
- 発売日: 1995/03
- メディア: 単行本
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平田オリザ 著
冒頭に、この本は目次を見て興味のある項目から読んでくれ、とある。
こう書いてあると気が楽になる。
私は初めの「現代口語演劇のために」と終わりの「女子高生と三ヶ月」を
選んで読んでみた。
重要なのか分からないけど、平田オリザは1962年東京生まれの劇作家で、「青年団」を主宰している。
46歳である。
平田氏は不愉快だと思うけど、この年に生まれた人に
トム・クルーズ、ジョディ・フォスター、松田聖子がいる。
建築を考える人は、演劇を考えている人より、対象を考えているのだろうか。
理論や原理を実行に写す場合、その理論や原理はなにによって支えられているのだろうか。
なにかに闘いを挑んでいるような時ではないのか。
平田は、演劇の責任は、私にある。役者はただの駒にすぎない。
演技で自己表現するな。というような事を言っていて、カチンといい音をして当たった。
タブローが発展し写真が発明された。
平田は土門拳の言葉を引用している。
「なぜ写真が発明されたか、
それは絵がどんなに精巧であっても主観を通じて描くから、
そこには必ず嘘があるからだ。
中略 この時リアリズムの要求で写真が生まれた。」
では、演劇が発展し、映画が生まれたかというとそうではない。
どちらかと言えば、写真が発展し映画になったといったほうがいいかもしれない。
ところが、演劇は、リアリティを映画、映像に任せてしまい、主観的表現に注力していきたという。
近代=客観を超克する「現代演劇」としてこの主観的表現が採用されたと勘違いしたのだそうだ。
その「現代演劇」へ彼は接近を試みていると言える。
演劇が発展して映画になったのではない。という命題が新鮮だったのは
演劇をカメラに収めたものが映画だと思いもよらなかったからだ。
舞台には何らかの作為が必要で
何をしても嘘っぽく見えてくることに現代芸術が抱える問題があるという。
作為を排除することが目的ではないのだと思う。
私はこんなことを考えました、感じました、表現しました。
ああ、そうですか。