大学は権威が集まっているのか

朝刊、一面で
駒沢大学が先の金融危機の影響を受けているとある。
学徒の泉といえる大学機関が一経営団体であることを再確認した。

確定した損失額は154億円だという。
深沢キャンパス、野球部グラウンドなどを共同担保にあてみずほ銀行から融資を得ている。


自分たちが卒業した学校のキャンパスで
耐震偽装のような、至らないものが発覚したら大変残念に思うが
こと、金融関係の知識人もいたのではないだろうか。
経営に教授たちは口を挟めないのだろうか。


金融に依る問題が、学びの場を襲ったことは、
私にはことの外、大きなインパクトがあった。
村社会は、村の論理では生きていけない。



「だって下請けだろう?!」
このフレーズを聞くと優越感がどこにあるのかよくわからない。
ある下請け施工業者は、都内の大物物件のほとんどを牛耳っている。
選んでいるつもりが、選択肢などほとんど操作されており
下請けの言いなりなのではないか。
ネズミは追いつめられなくとも、猫を噛んでいる。


ネズミと村のファンタジーは、
何もディズニーランドだけではなさそうだ。


平田オリザ 著


演劇は可能か。
私は演劇などまるで知らない。
平田は、近代芸術の歴史は、主観からの逃走の歴史だったという。
芸術が、近代を経て、一般階層に広がったからなのか。


リアリズムって言葉がこれまでにもよく遭遇してきたが
平田の解釈は、嘘という概念の逆だという。
「より信じられるもの」「より現実感のあるもの」そして「より同時代性のあるもの」と言っている。
本物だといわないところ、現実だといえないところがミソなのかもしれない。
そちらへ向かっているものという意味で、嘘の逆というのが定義として分かりやすい。


前近代が 作為→主観→嘘    →神
近代      客観→リアル  ≠真理
現代      無為→記述(描写)→世界

リアル≠真理が、近代思想が現代においてうまく言っていないことを示している。
この上の表は、とても示唆的であったので、そのまま引用させてもらった。
現代において、ストーリーのような主観的な判断基準によって何かが造成されていく過程は
前近代へ回顧しようとする態度であるように見えてくる。平田は、こうした主観的表現をとる傾向を「後退」と表現している。


文学的主題が必要だと私は考えていた。
アンチオイディプスを持てない私たちが文学を気取れるのか。
そんなことを考えていたが、世界を私たちはダイレクトに捉えるべきなのかもしれない。
文学的という事が今ひとつ一体なんなのか分からないままだったが、
それは、「世界」なのかもしれない。