スーパーキャピタリズム。

レヴィ•ストロースの百年記念らしい。

http://www.msz.co.jp/news/topics/Levi-Strauss100.html


CSRについて考える一日となる。
Corporate Social Responsibilityの頭文字を縮めたこの言葉は
2002年に登場したらしい。
企業の社会的責任という意味だが、CSRと言った途端に次元が少し変わる。


朝刊を眺めていると、どこの企業も社会問題への取り組みを行っていることを
発表している広告があることを皆お気づきだろう。
あれらがいわゆるCSRと呼ばれるものの一つだ。


富士めがね社は以下のようなCSRの取り組みを行っている。
http://www.fujimegane.co.jp/archives/social/csr_2007.html
おなじみのミネラルウォーターのCSR
http://www.volvic.co.jp/1Lfor10L/index.html


こうしたCSRの取り組みが宣伝効果狙いではなく、
やはり社会への貢献が真の目的とならなければならないと説く。
どう考えても広告でしょと思っていたが精神的に重心が
社会貢献にあるべきだという。
確かにお金はほしいし、私もそれなり汚いけど、社会には貢献しないとね。という感じだろうか。
二面性を持っているのだ、だれもが。


スーパー・キャピタリズムを迎え、私たちはこれまでのような健全な意味での
資本主義社会を維持できなくなりつつある。
この健全というのは、帝国主義的でそれこそ、ノイズを排除してきた主体による感覚だが
しかし、その主体が行ってきたやり方にいよいよ危険信号が点滅している。


その開発抑止力として、環境問題が取り上げられ、グローバル化した社会での
共通の理念を今や企業は共有している。
その端的な「社会貢献」へのイメージに、資源への貢献、貧困、エイズ、戦争、などなどへ
私たちは貢献しながら、「金儲け」しています。ということか。


先日、TMと話したことだが、CO2削減していますと各企業が主張することに
もはや、意味があるだろうかと。飽和していないか。でもしなくていいわけがないし
取り組むことは、していかないといけない。
CSRとは飽和したら意味がない。やらないとグローバルな競争においてはハンデを負うことになるのか。


参考として紹介されたものがあった。
暴走する資本主義においてロバート・ライシュ
「消費者」と「投資家」  「労働者」
を分けて考えるが、資本主義において
「消費者」は安いものを求めることで、苦しむのは「労働者」だという。
自分たちで資本主義を生きにくくしているということだ。
私たちが、高いものを無理して買うようにすれば、私たちの収入は上がるのだ。


CSRは、まだよくわからない。集団で貢献へ参加しているとなると実感が湧かない上
すごく怪しい、偽善的に見えてくるが
一端、個人で見てみると、社会へ貢献したいという気持ちがある人はことの外、多い。
弊社の製品を買うと、アフリカの子供たちが助かりますよ。といえば、人は消費と社会貢献が一致してくる。
そういうサイクルがどうしても感じられてしまうのだが。まだまだ私は半人前なのだろうか。
でも、きっと今、社会へ貢献したい自分もどこかにいるだろうなと感じる。


http://pinkribbon.yahoo.co.jp/
ピンクリボンキャンペーンのように、乳がん予防を訴えかけるものへ
積極的に社会がなっていくことは、とてもいいことのように思える。
社会問題は山積みである。一つでも取り組んでいくことで、その企業の存在価値が高まるのだと思う。


今日も、五キロ走る。
空を見上げると、オリオン座が太古から変わらずにある。
少しだけ、神話を感じる。
ジョギングのいいところは、周期を作り出すところじゃないだろうか。
呼吸のリズムや鼓動、足や手の動作などの周期を整えていくことが
そのまま精神力に繋がってくるように思う。
久しぶりに、走ると、この「走る」って行為がちょっと不気味なんだな。





私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝

私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝


B級映画の帝王、ロジャー・コーマンの自伝。


彼は300を超える映画をプロデュースし、そのうち50は自分で監督した。
主にドライブイン・シアターへ配給されたらしい。
彼の映画会社から後の映画界の宝となる映画関係者が次々と輩出された。


ジャック・ニコルソンマーティン・スコセッシフランシス・コッポラ
ロバート・デニーロジェームズ・キャメロン
ウィキペディアによれば、ガスヴァンサントもそうであるらしい。
映画の世界で成功する最短のチケットがロジャー・コーマンの門をたたくことであったというのは、
上記のメンツで十分証明されているといえる。


映画は、一品生産であるとしばし思われている。
その映画のためのキャスト、セット、ロケ、フィルムが用意される。
せっかく揃ったものを、もったいないと感じ、あり合わせで強引にもう一本映画を撮ってしまうロジャー。
相当、ひどいものを平気で配給してしまう辣腕ぶりに圧倒される。


ものを作る人格に対する固定観念がいかに蔓延しているかを感じる。
感じたままに、丁寧に、慎重に作るようなものとは限らない。
何かを追求した姿勢というのは、人生を経れば誰にでもついてくることであり
それが目的化した人格像が現在のものづくりの、安っぽい芸術家のイメージとなっている。


B級映画が、ビジネスとしても作品としてもおもしろい。
しばし、ベルイマンの映画は、「いかにも」なものとして描かれているように思う。
一種のコンプレックスのように見えなくもないが、「いかもの」としてのB級映画のほうが
わたしには、新しいものに見えるし、作品のクオリティは、手厚い芸術映画よりもおもしろい。


本書は、本格的な、王道の、真の、ものに対する強烈なアンチテーゼを感じる。



テレビで放送していたので、見てしまう。
この映画は上質だと思った。
最近この手の映画を手抜きで作っているようなものが多く
こういう質は、なにが由来しているのだろうか。


ジョージ・クルーニーニコール・キッドマンという
すごい共演が実現していた。
WTCがまだあるNYを何度、映画で発見しただろう。
NYがずば抜けた画になる街であり、なにか最後はやはりNYにしたかった当時の熱が
そのまま保存されている。
まだあった頃の映画。そんな区切りが密かに行われている。