ok!

今日は慶應大学でレクチャーを受ける。近いし便利だ。
大人たちは、なんて窮屈なのか。
一方技術者たちは、大人に見えない


その後、渋谷でNNと呑む。
久しぶりだったが
滝のような言葉を受けた。予想していたがすごい滝だ。


彼は次のステップが明確にあるようだ。
他のどんな人より違っていたのは
自分をすごく大切にしているところかもしれない。
案外、リアルな自分のイメージがある。
今するべきことを捉えているのが意外といえば意外。
もう少し、誇大妄想な感覚の人かと思っていたが違っていた。
彼は私のイメージではちょっとしたジャーナリストか何かのイメージだったが
少し違うかもしれない。


酒も入り話は相当くどいところにまで行く。
どうも、建築や芸術、映画や文学といった話ばかりしていると
世間的には問題があるらしい。後半はかなり嫌がられたように思うし
私も突破口を見出せず、困ってしまった。ゆーほどのことではない。
少しばかり、圧力的な面もあったななどと顧みる。
そういう意味でも脱力していかないといけないのかもしれない。
脱力を知ったような呑みであった。


なじみの質問や関心ごとを話すと彼は
彼なりの言葉で考えを聞かせてくれた。
無茶苦茶おもしろいこと。
これは、四季の移り変わりへの機微と、周期に対する感受性。
いちいち言葉にすることへお怒りを頂いた。
確かに理屈っぽくなっている自分を認める。
よく分からなかったが、虹の美しさが彼の美学だそうだ。
ロマンチックだと批判したが、俺はそれなんだみたいな感じだった。
おもしろかったのは、バス停の話だっただろう。


バス停にカツラの広告がある理由を考えるというケーススタディだ。
答えは無い。
なぜだろうかという回答を行うだけで
どれだけのストーリーが用意できるかが重要である。
彼の用意した仮説は、おもしろいものだった。
これの仮説が今日の収穫だと言える。世界はいろいろな見方がやはりあるし
しかも、色々な中におもしろい見方があるのです。
合理化したらそれらは見えなくなる。そんなことを最近は探っているのかもしれない。


しかし、理屈っぽくなっていることは確かである。
これはまずいと直感的に分かる。
だが、旅行話を聞かされてもおもしろくないので
屁理屈でもいいから色々、話を聞きたい。
なら、もう私は理屈屋なんだろうか。


よくしゃべる人は、あまりしゃべらない人よりいつも弱者である。
純粋に感じたままでいい。という批判を受ける。
感じたままの感想は私の理論だと感想を捉えた瞬間に不純物だらけになっているように
思える。うーん、理屈っぽいなあ。まあいいか。