A社の凋落

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

別役実 著


本書は、大きく二部構成だ。
前半は「いじめ」という社会問題について
富士見中学校で発生した「いじめ事件」
葬式ごっこからある生徒の死へといたる事件から
現在的な関係構築と個人と弧の関係を見ていく。


後半部は、サミュエル・ベケットによる戯曲、演劇の構造分析
そこから抽出されるドラマツルギーを解釈していく。
こちらは、あまりよくわからなかった。
ベケットが演劇論を作り出すことで
演劇を分解し、抽象的な理論、普遍解へと導いていこうとしたことは
読めば分かってくるが、ある危機的な状況になってきたということは
いじめの構造とのアナロジーでようやく見えてきた。


ベケットが良くなかったかというとそうではないが、
彼が試みようとしたことと違う方法、道の可能性を探っている。


演劇は、数回しか経験がなく、ここで何かを言うのは難しいが
別役が言うには、演劇は人間の普遍性を追求しようとしてきたという。
ここに違うんじゃないかという風に今考え始めるべきかもしれない。
モダニズム批判のように私には聞こえてくる。
あらゆるトータルな状況に対して普遍性を得ようとしたことで
多くのものが削ぎ落され、「純粋」だと思えるもの
最小限のもので語ることを越えて、
演劇そのものを問題視していくベケット。演劇って何?みたいなことか。
に対して、演劇は局部的に人間の普遍性に対応しなくてはならなくなっている。という。
演劇やタブロー、建築が高度になってきたかといえば
よくわからない。長い目で見れば、演劇とは何かを語っている時期が
果たして高度な次元に達したかというと、そう単純には見えてこない。


局部的リアリズム 別役はここに可能性を見ている。
部分的リアリズム 部分に小分けされた構造で、集合させると全体が見える。
象徴的リアリズム 縮小化された構造で、拡大すると全体が見える。
この当りの話が分かりやすい。
拡大しても、集合させても全体は分からないが
それ自体が、全体の一部であるようなリアリズムだ。


なぜなのか、これには、コミュニケートしあうには、そのリアルが
決定的に必要だからだという。
全体性を獲得しようとしたことで、私たちが欠損したものを
取り戻さなくてはならないと、どうやら事件やベケットを通じ彼は考えているようだ。


この問題視する文化人たちは、状況を変えようとはするが
どんなプログラムにもバグは存在していることについてはどう考えているのか。
状況を変えたところで、「事件」は発生するように思う。
状況を変えるという指令が「事件」が起こらないようにためのものなのか。
「事件」=危機的状況という等号がどんな独断で決定されているのか
まるで分からない。目の前の問題解決をしていくことが私たちを救うということなのか。
文化人たちが持っている善悪の判断材料が
なぜそれではいけないのか?という問いに答えなくていいのか分からない。











PCが壊れ、修理に出し
戻ってきて使っていると
また壊れた。
サポートラインや直営店はほとんど
電話が通じず、どう考えてもズサンな経営であるように思う。
良いデザインによって質が犠牲にされ
サポートもままならない。
デザインで欲望を提供し、翻弄しようとしている。
だからデザインは嫌いだ。
いや、そうしたケアがないデザインは、デザインとは呼べないだろうと思う。
風俗のようなものだ。


携帯音楽再生機が壊れて直して欲しいと
訴える消費者にA社のスタッフは杓子定規に
修理に出すと3万円くらいかかりますけど
新しいの買われたほうがいいんじゃないですか
と言っていた。
明らかにおかしい
修理が安くなれば、修理屋は儲かりそうだ。


善良な消費者は切れなければならない。
切れれば円滑に進む。
クレーマーと呼ばれるコードに登録されると
実にスムーズに進行するのである。


見苦しき、クレーマーになりたくない人は
社会でたらいまわしにあって、おしまいである。
甞められたら、お仕舞の世の中である。
でかい企業にいようが、小さい企業にいようが甞められる奴は甞められる。