自由が丘

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

著者 宮沢章夫

遊園地再生事業団とかよくわからないことをしている。
しかし遊園地再生の組み合わせがおもしろいと直感してしまう。
1956年生まれデ劇作家である。

本書は2007年7月に発行されている。
2006年10月から東京大学教養学部超越文化科学科表象文化論分科に
おける講義をまとめたものである。
全体は、まえがきと12章+補講、あとがきからなる。


本書は全部読み終えてからではなく、少しずつ
考えながら書いてみようと思う。


現在をノイズという切り口で観察する。
本書ではノイズの排除されたニュータウンを現在の象徴のようにして捉えている。
ニュータウン=現在とは少し時代錯誤にも感じるが
ノイズがどこに廃棄され美しさを保っているのかという点で
「生」をノイズに見ようとしている。
隠蔽されたノイズは、制御や監理、パッケージによる窒息を意味している。
容器内の密閉された空気が暖められ破裂するように、
この制御バランスが人を苦しめている中でノイズを擁護しようという。
ただ、この見方ではそれといって新鮮味はなさそうに思える。


排除する側から見た<ノイズ>という立ち位置の指定が
ノイズが一面的なイデオロギー下での視線であることを強調している。
排除する主体がだれなんすかということだ。
いじめのメカニズムに何か通底しているように思える。


一章の論点の一つに
80年代の象徴的な傾向として「差異化のゲーム」があったとし
現在ではそのバブルが崩壊し、それが違ったものとして継承されたとある。
階層差や階級差を作り出すことで、排除する主体のイニシアティブがどこに
あるかが見えてくる。そういう仕組みだろうか。
極を作ることで、軋轢のようなものが生まれてくる。
今の時点で「かっこいい」と思われている価値観に対抗する意識として
あんまかっこよくないもの、もしくは排除されたものが召喚される。
かっこよくないものなんだと好奇心が沸いてくる。
そこにはある意味いつまでたっても辿り着けないような蜃気楼のような感じもする。


宮沢氏はこのとき、かっこよくないものをかっこいいと思っているのだろうか。
かっこよくないものをかっこよくみえてきてしまい
文化的ヘゲモニーらしきものがあるものには、「うっ」となってしまう。
流行に対する嫌悪感はもはや誰にでもあるだろうし
ヘゲモニーが捏造されている感触がどうしても感じてしまう。


ノイズがこれから、どんな世界把握を考えさせてくれるのか
色々と考えてみよう。
ノイズの背景には管理社会がある。
ゲーテッドコミュニティがそれである。
この不景気でも広尾のゲーテッドコミュニティで構成されたマンションの売れ行きは
好調であるらしい。


思いつきだが、管理社会であったとしても
ユーズドのゲーテッドコミュニティであれば、やわらかさがあるように思う。
ユーズドは既にノイズを持っているように思うからだ。
得意げにユーズドを安く仕入れた人は
「ほとんど新品でしょ」というけど別にユーズドでいいじゃない。


たとえば、一回しか使えないような製品を思い浮かべてみよう。
パンパースなどどうだろうか。
ユーズドのパンパースは自己矛盾しているような笑いがある。


都市鉱脈という言葉にもあるように
新たにレアメタルを採取するよりも
古いメカに残存しているレアメタルの回収率のほうが高いらしい。
ユーズドで社会を管理すれば、ちょっとやわかいんじゃないかな。













自由が丘でYIと首脳会談があった。


お互い、用件があったこともあり
22:30スタートとなり、3:30頃まで語らう。
場所は自由が丘では馴染みの店だ。


キーワードはどうやら、経営ではなかっただろうか。
彼の場合、あまり雇用されている感覚がないようだ。
労働観が微弱なのである。その心は経営に意識的だからだろう。


不動産へ自らを赴かせたのは、資金運用、経済の流れを読むためだそうだ。
いやはや、仕事がおもしろくなってくるのは、3年目とよく言われる。
そこから、仕事面でお金の流れに接触できるようになると
ようやく自分が経済へ参加しているような気持ちを得ることができるのだ。


今この時期に彼と会談できたことは貴重である。
これまでとは、どうも様相が異なっており、
環境面での振動が、考え方、軸となる部分へどう影響させるのか。
身体と脳の相関のように、環境が変わってもぶれないことを
彼は自分の強度だと捉えている。
私は強度があるものよりも、靱性のあるもののほうが美しいと感じるため
彼には反論した。
軸は変化しないことであるよりもしなやかにカーブできることに
意味がある。そんな話である。


資産と資本、負債の話がおもしろい。
収入のうち、収入を得るための出費に経費があり
その残高で自分のための投資を皆行う。
投資のうち、たとえば、マンションや車、映画鑑賞、交際費など
有形資産と無形資産に分かれる。
有形であれば、再度売ることができるし、資産となる。
1000円で本を買い、勉強して売ったらば、100円だったが
差額900円以上の生産能力をそれでいられれば、OK。
無形資産であっても、映画鑑賞によって得られたもの、
プライスレスなもの、付加価値がどれだけのものかを
常に判断しなければならない。特に時間や交友関係の重要度を彼は説く。


マンションや車を購入するためには、ローンが必要となるだろう。
負債を得て購入するのだ。
だが交友関係とは負債がない資産である。
彼は友達にお金をかけることに、抵抗がないのはそのためだそうだ。
彼らしい哲学である。


友情と信頼を彼は分ける。
俺たちの関係は信頼であり、友情ではない
友情や友達といった言葉の持つ浅はかな響きに彼は敏感に距離をとっていた。


投機していく生き様は狩猟的だと思ったが
彼は自分をあくまで農耕民族であろうとする。
響きとしては狩猟的でありたいが、農耕民族も同時に生きる術を
持っており、あながちイメージでどちらのほうが良いとは
いえないものである。


狩猟的か農耕的か 人によって様々な世界把握を行っており
脳にとってもいい栄養を得ることができた夜であった。