ホメロス

少し前だが祐天寺でTMと呑んだことを記録しておこう。
祐天寺とはなかなか洒脱じゃないか。
店も都市もTMに決めてもらった。
彼らしい、もつ焼きの店ですごくいい店だった。


夜通し呑むことになった。
話題には事欠かない。
仕事、将来、家族、政治、経済、芸能
恥ずかしながらかなりオーソドックスなテーマである。
中でもポリシーが自然と話題の中心となっていた。


自分という国家を経営していく上で政策が必要である。
その点においてポリシーという言葉が選ばれた。
ニュアンスが伝わればと祈る。
それは何かしら、自分の性質を知った上でどのように
戦略的にやるのかという点で低次の理性の事だと思う。
彼と話していて特徴的だなと思うのは
彼は自分の弱さを話すという点だと感じた。


それは弱さだと分かっても、私は彼を律することを躊躇した。(チョットシタケド)
おもしろい=弱さ かはわからないが、弱いことを晒すような奴は
言葉に厚みがある。プロパガンダに少々辟易しているからかもしれない。
裏のない弱さとでも言おうか。ソレヲイッチャアオシメエヨとなりそうな線である。
弱いを晒す理由があるとすれば、強さよりも真実だからだと思う。
真実は彼の中で、もっとも尊い概念なのだろう。


私の分析では、彼のポリシーはスタンダードやドマンナカだろうか。
それを達成するために、というか彼の国家では当然のように
正直であることが求められている。だが彼は正直が強張っているような感じもした。


正直であるとは、きっともっと素敵に野蛮な事ではないのか。


私は連日の首脳会談で一つ定型的な質問を用意している。
「むちゃくちゃ、おもしろいことは何か」
これなんだな。いっつも語りたいのはきっと。


友達という言葉は、なんだか友達を指すにはどうも頼りないし
あまり相応しくないように思っていたが、首脳だと言えばなるほど
あいつは確かに首脳なんだと思えてくる。
世界はグローバル化しているのだ。
祐天寺での首脳会談は、世界情勢にどんな影響を与えることになるだろうか。




先日、日曜日の事も記録しておこう。
NEさんと小金井にある江戸東京たてもの園なるテーマパークへ訪れた。
彼女もレッキとした大国の首脳である。

独立し、資格もあり、実力もあるが、仕事がない。
そんな人なのだが、私の話をしながら
自分の将来を考えているようだった。


たてもの園は、見切れないほど、見るべきものがあった。
半分だけ見て、その日は退散した。
後日、その辺りのことも考えていこうと思うが
今日はひとまず、ここでおひらき。


秋津温泉 [DVD]

秋津温泉 [DVD]

吉田喜重 監督作品


戦中の疎開途中だろう
男は力尽き、
秋津温泉を自分の死に場所だと悟ってか
途中下車し、そこへ降り立つ。

旅館で女と出会い、
看病してもらう。
そこでの静養が奏し男は回復していく
するとうまい具合に終戦を迎え、
戦後が大きな背景となって映画は進行する。
温泉の旅館の女と仲になり
しょっちゅう逢引をするも
男は体が良ってからは生活を東京へ移してしまう。

逢っては去り、逢っては去り
それの繰り返しから、女は年老い、疲弊していき
心中を男に求めるも相手にされず
結局女は一人自殺する。


戦争中における極めて苦しい生活が終わり
これから、新しい人生を生きるんだという宣言とは
うらはらに、戦後にもかかわらず、命を絶ってしまう不条理さ。
人は戦争を理由に辛さを合理化していたということだっただろうか。


攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society [DVD]

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society [DVD]

期待してみた。期待通りだった。おもしろい

集団的無意識が一つのテーマだった。
少子高齢化、失業率の増加、重税
それと並行して進む技術革新

高度な監視社会を向かえ
その中で胚胎していく無意識がテロとなって現れる。
その首謀者はつねに無意識の先端的兆候にすぎないと思う。

ネットを駆け巡る電子精神によって精神界は可視化したと思った。
それと同時に身体を意識しはじめ、身体や国家といったボディを失った状態を
難民と呼べる。
では、無意識は何に宿るのか。
特に集団的無意識はボディの喪失とともに淘汰されてきたが
難民化する集団的無意識というものはありえるのだろうか。

現在、新しいモデルたとえば、リゾームについてここでは絵が与えられていたが
社会の規範が進歩していくにも関わらず、
私たちはそれを既存のモデルでしか描けない。
いや描けているにもかかわらず、それに適合できていない。

不安定のモデルを採用できない精神構造に対して
社会はますます、不安定なモデルを提示し、個人では感知することができないような
マクロ的視点において安定なろうとしている。
そんなことを考えた。

男性論―共同研究

男性論―共同研究

男の甲斐性としての家つくり

西川祐子


伝統的な家族と近代的な家族
この移行がいかにして行われ、現在に至っているかが考察されている。
さらには現代は家族はどうでこれからどうなるかを考えさせる。


いろり端から茶の間、リビングと家族が暮らす場におけるハブは
変遷してきたとする論調はいつもの通りだ。
nLDKにおけるnは家族の構成人数マイナス1とされることが多く
そのマイナス1が夫であるという指摘も以前に読んだ。
つまり夫婦は同室であり、夫婦はセックスをしていますという
公言があったと上野がかつて言っていたことを思い出す。
父の部屋がないため、父はリビングへ吐き出されたのだということだ。


おもしろいのは、書斎についてである。
書斎を持ちたいと我々にとっての父の層はどこか思っていただろう。
つまり自分の場所を再生させたい、父が部屋を欲しがったと読むべきなのだが
ここでは、書斎は男が家を建てたことを一人前とするがごとく
男らしさの象徴、武器を製造する場所として書斎はあったとする論調で説明する。
これが甲斐性としての家つくりのことになる。

書斎をもっている家に住んでいる家族を養う父
これを国が要請し、社会が求めた男の像であり
その産物に書斎があるというのである。

現在、私たちの家において風変わりに機能しているものが
ここで思いつく。
パソコンである。テレビはリビングにセットされていたが
パソコンは各自が所有するという世代に我々はいる。
当然といえば当然だが、これは家族それぞれがアドレスを持ち
それぞれのプライバシーを容器ではないところから強化したものだと言える。


これから、父という概念がどのように推移していくことになるのか
とてもおもしろいように思う。
会社に終身的に雇用される時代が終わったことで
終身結婚の概念も今ではやわになってきている。

家族の負担を減らすために、介護、育児のアウトソーシング化を進め、
家にだれがいるという景色事態あまり一般的ではなくなってきてしまう。
そんなとき、もしかしたら悪に思えていたレンタルビデオ
家族の結束を作るよりどころになりうるかもしれない。