Peace


西麻布にてHTと呑む。
現在巡回中のサシノミ祭の一環である。
できるだけ、人によって呑む都市を変えてみている。


HTと呑んで新鮮なのは、彼がピュアだと思ったためである。
快晴の空のような気持ちのよい彼に
私は爆撃機のごとく黒い煙をばらまいてきた。
悪党見参である。


彼だけではないが、大学院での生活に
ある程度の満たされないものを感じているように見えた。
しかし、一歩一歩は着実である。


彼から感じたのは、純粋さだと思う。
振舞おうとしただけなのかもしれないが
そうすることもまた、純粋に思えるような
感じが彼にはある。ますます、私は悪の道へ行こうとしているような
そういう感じがした。




本日は東京工業大学で開催されている坂本一成の展覧会を見に行く。
実施図面が閲覧できるのがうれしい。
私はかねてより、坂本の建築に関心を持ってきた。
模型もいい大きさでキチンと作られており
見ていて気持ちがいいものばかりである。






大手町で知り合ったフィリピン人の男は
仕事について満足のいく仕事をしている人間はいないと言う。
いや、これは心のありようが間違っているように思う。
自分が憧れる職業のありかたは、作られたものである。
極めて商業的匂いの強い商品を信じようとしているように見える。











先日、国立新美術館で開催されているピカソの展覧会に行った。
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」
http://www.asahi.com/picasso/


いつまで立っても、ピカソゴッホフェルメールやモネマネ、マティスルノワールと行った人の
展覧会はなくならないように思える。
収益性がかなり高く見込めることと
まぎれもない「天才」の作品は見る価値がいつまでも保たれているのだろう。
もうピカソ飽きたとか、見る価値ないとは中々言えない心理がある。
先日のレオナルド・ダ・ヴィンチ−天才の実像展 では
入場者数を見てみると一日1万人、合計80万人である。
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1270


チケットは1500円だとすれば、12億円の売り上げとなる。
12億円のうち
作品の貸出し、美術館のテナント料、ポスター、パンフレットなど広告費、搬入経費、内装がかかる。
ピカソ展では大企業が常に名前を連ねている。
「主催」:国立新美術館朝日新聞社テレビ朝日
「後援」:フランス大使館
「企画」:パリ・国立ピカソ美術館
「協賛」:キャノン株式会社、大日本印刷
「協力」:エール・フランス、三井不動産、Tokyo Midtown みずほ銀行
「特別協力」:AXA Art


今回はサントリー美術館と同時にやることで、トリエンナーレにも似た
歩かせる事で街にお金を落としていく可能性が高くなる。
さらに言えば、好き好んで美術館に行く人は大抵、金を使いたいのである。
インテリ的生活を購入した直後では食事もどこかしゃれたキャッフェでエスプレッソでも呑むかもしれない。
かつてのパリでの生活を思い出し、あれよあれよとお金が溢れていくのである。
お金を落としていく企画ならば、と出資してくれる企業も多いだろう。
ミッドタウンや三井不動産はそういうものなのかもしれない。
広告代理店はこうした企画やマッチングを考えているのだろう。
少なくとも、今どんな展示をしているかでその街の一時的ブランドは変わるのだろう。


かく言う私も、展覧会後はポストカードを物色してしまう。
ロッカーに使う百円玉がそのままカードに化けるのである。
うまくできた話だが、あれよあれよと銀色の円盤はピカソが作るコスモスに引き寄せられていくのである。


さて、人がいちいちこうやって経済効果を芸術に見いだそうとするのは
浅ましい事だと思う。
税金で芸術鑑賞税を設けて美術館はただにしてほしいものだ。
もしくは、地域別でもっと市民が(自分が)見たい芸術作品を誘致できれば
おもしろいように思う。
市民の文化度を上げる事で建築家や芸術家といった怪しい職能の地位が
少しでも上がれば、建築の質もまた向上してくるのではないだろうか。



肝心のピカソだ。
今回改めて発見したのは、彼の作品に「恐怖」を感じたことだ。
人体解剖にも似た倫理の一線を越えているような「怖さ」を感じた。
落ち着かない気持ちにさせる。

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1968年生まれ、現在40歳 境真良(さかいまさよし)の著作

東京大学法学部卒業後
通商産業省経済産業省メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭事務局長などを歴任
現在は早稲田大学院国際情報通信研究科客員准教授
熊みたいな顔をしている。


本著の中枢は「放送と通信の融合」という言葉にある。
この言葉の意味は何か。
これにはどんな問題があるか。
どんな影響をもたらすか。

これを歴史的経緯や技術、業界の構造あるいは現在進行中の試みの中から考察していくという筋書き。


1.映像を取り巻く産業が成り立つ原理や仕組みをまず整理する。
 ギョーカイの構造を明らかにしていく。
2.これまでの映像産業がどのようにして創造され流通し消費されたか。
 ギョーカイを支配する覇権を考察する。
3.インターネットやデジタル映像といった技術革新がどういうインパクトを与えたか。
 新技術によって1.構造 2.覇権がどう変化したかを具体的事例を通して見る。
4.テレビが迎えている危機的状況を描く
 次のテレビの輪郭が見えてくる。
5.コンテンツが迎える変化とそれを統制するルール
 メディアの中で飼育されていたコンテンツがメディアを超越しはじめることでテレビの次を考察する。


広告進化論と呼ばれる節には
次のテレビへの進化によって広告も進化を迫られるとある。当然だろう。
広告界はターゲットをだれにするかが重要であり
どんな層がどんなモノをほしくて、いつその層がそれを見るか
マーケティングによって広告は環境適応してく。


バス停にアデランスの広告が多いのは、
バス通勤している人は稼ぎが悪いから家も遠くで我慢しており
稼ぎが悪いからストレスを抱えている人が多く、はげやすい。
はげたらはげでいいのに、そういう遠い所にでもマンションを買う人ほど
世間体を気にするため、ズラを被る事でヘアースタイルを維持しようとする。
そんなマーケティングがあるかもしれない。


ここで思い出されるのは、映画「マイノリティ・リポート」における広告だ。
広告が目から個人情報を特定し、その人に必要な広告を提供するというもの。
この技術はマッチングという。
夥しい情報で溢れ変えるが私たちは必要な情報と出会えた時のみ
情報を消費したと言えるため、このマッチングの技術によって効率よく情報を消費できるのだ。
例えば、購入履歴によって自分に興味のある分野の広告ばかりになってくるAmazonはその分かりやすい例である。
言ってしまえば、Tsutayaで映画を借りるのは、あるマーケットに自ら陥れるようなものだ。


ちょっと風邪気味だなと思ったら、街では風邪薬のCMばかりになったり
失恋したら、出会い系や風俗(?)の広告ばかりとなっていくとしたら中々笑える
今日はパスタが食べたいなら、パスタの店の情報が忽ち映り込む。
しかし、自分でまだ特定できていない悩みがあったときに
街の広告が自分の鏡となり教え始めると、もはや自分では何も考えていないようにすらなる。


別に調子は悪くないのに、歯医者の広告が増えたら
おいそれと行ってしまうかもしれない。
マーケティングから自分を特定されるのは屈辱的ですらあるだろう。
統計的にそうしたほうがいいと思っているとマズい。


実はこのマーケティングは中々よくできた概念である。
車一つとっても、実は価格設定によって収入がいくらで、家族構成がどれくらい
どの辺りに住んでるかぐらい分かりそうなものである。ある意味では選択肢は無数にありそうで
現実的な賢い選択は一つしかないのである。


今日、武蔵小山で安い女性用の下着売場を見かけ、ブラジャーを見て思ったが
もしブラジャーをしていなければ、マーケティングから逃れられるのではないか。
よく考えれば、ブラジャーとアデランスは同義である。
そんなことをこの本は考えさせてくれた。


ジョン・カーペンターゼイリブは、マーケティングに対するプロレスラーの悩みだったのだろうか。


地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」

地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」

 

フェルミ推定という物理量の推定をする方法がある。
これは数少ない情報の中から
いや全く情報がなくても大雑把な推測をする方法である。
これ自体は中々おもしろい。


頭のいい奴と話すと私の聞いた事が
ある程度はずれることなく答えが帰ってくるが
悪い奴だと、一概には言えないと言い出す。
考えてないのである。経験値が少ないため答えられないという状態ではいかんのである。


日本脱出 [DVD]

日本脱出 [DVD]

吉田喜重監督作品

いいことなんて一つもないような映画だった
アメリカでジャズシンガーになる夢を持つ青年が
ヤクザな兄貴に誘われて強盗するも失敗
逃走中に警官をはねてしまい、しまいには撃ってしまう。
強盗仲間と中がこじれ、仲間の一人を殺害。
ヤクザな兄貴は金を持って逃走するも
つきとめ、金を奪って逃げる。

アメリカに逃げるため米軍基地へ行くが
韓国行きの便しかない。
一度は韓国行きを覚悟するも女が恋しくなり戻る途中で見つかる。
警官に追われながら逃げ続ける。
東京オリンピック聖火ランナーを中継する車を奪取し逃走。
その後船で逃亡を試みようとするも見つかる。

岡本太郎が絵を描く様子をオープニングとエンディングに使っている。
東京オリンピックの活況が時代背景にあるのだろう。
ただやる気なく、アクションを続けていく映画にメリハリがない
時代のねじれを感じる非常に暗くなる映画だった。

ひたすら、逃げている。