考えるに手段


六本木通と明治通の交差点である。
「広場」らしきものをここには感じる。
陸橋に道路に迫り出すように座れる場所があればと思う。
映画撮影に使われるようなクレーンのようなベンチだ。





「考える」
最近、ロジカルシンキングと呼ばれるものが流行している。
いわゆる「論理的」であることが「考える」と同義とされているきらいがあるようだ。
だが考えるとは論理的過程だけとも限らない。


「直観」と呼ばれるものが、果たして論理的マラソン
双璧を成すほどのものかは、費やされる労力を考えれば
割に合わないようにすら思える。
筆者が論理に対抗しうる概念に「直観」だと少し頼りなく感じるのはそのためだろう。


だが、「考える」に私が元来必須だろうと思っている工程の一つに
「仮説」というものがある。
こいつは論理的には引っ張り出すことが難しいように思う。
なぜなら仮説が論理的に説明できた場合、それは仮説ではなさそうだからだ。


いや「直観」は、我々が思っているほどドラマチックでもなければ
芸術と大げさに形容するものでもないのではないか
宿敵論理に十分戦えるだけの器量があるように思えてくる。
なぜならば、論理は非論理を瞬発的に選択しているからだ。


論理をどちらかと言えば強くて嫌な奴だと捉えてきたが
ホントはいい奴なんじゃないかと思い始めた。
本当は心の優しい論理
この前も小鳥を肩にのっけていた論理
友達がいない論理は毎晩、直観くんが遊びに誘ってくれないかと期待しているのだ。




さてこの二極化した「考える」の性質を更にもう一派考えられないかと考える。
S極とN極ではなく、光の三原色のように3つの要素で「考える」が成り立っていると「仮説」を立てる。
すると論理と直観ともう一つという分け方もあるかもしれないが
KinKi Kidsではなく少年隊にしようというのが私の考案だ。


これは「考える」の構成要素を変更することで考える事自体がリフレッシュしはじめるのではないかと
そんなことを意図して思ったのだ。
「考える」を3つに割るやり方はどんな方法があるか。