結婚式

今日は結婚式で
汐留にあるコンラッドホテルに赴く。
きちんとした先輩でボクもキチンとしようと思ったら
道を間違え遅れてしまった。


よく考えれば相当いろんな人に実に多くの
実りある話を聞かせてもらったように思う。
結婚式だけに皆自分の結婚観をなにかとリピートさせるのだろう。

少なくとも30歳の界隈を向かえると
結婚のデッドラインを意識することはよくわかった。
後学のためだが、32歳を越えると女性は出産手帳の検査が少し難しいものになるため、
大体、女性はそこに向けてある程度の計画性を持っているが
男はそれがないためあまり覚悟がない。
逆に結婚が32歳より遅くなる場合、スパンがまた一つ変わるそうである。
多分、そういう問題自体から逃れたい人ほど、覚悟が決まらない


設計事務所に勤めた数人の方々の話を聞くとリアルである。
夢見て、忍耐で勤めたジカンをなにかあざ笑うような感じと
否、それよりもどうやって食うかの熾烈なリアリティ
当然、資格の話もあるが、実は倫理や空間の哲学はここではしらけている。
設計業務が「オトナ」化するためにはまず、デザインというくだらない表現を
計画学とでも言い換えて、法規の話と当然、価格帯(坪単価などと時々言ってみれば感じが出る)
しらけて言えば、ディテールの話をすること自体、「オトナ」化への衝動である。


おもしろかったのは、環境がなぜこれほどまでに権力を持っているかという話
環境問題を建築が考えざるをえない状況がある。
法律があり限られた金銭の中で実現しようとする環境スペックがある。
モラルが要請されるのだそうである。環境スペックを上げることでどれほどの費用がかかるのかが分かれば
それなら、断熱を薄くしてもいいだろう、外断熱でもいいだろうとなるだろう。
ペアガラスを使ったから環境的モラルがあり、高性能かどうか。
ボクが言いたいのは、それを度外視してなにかをする場合の趨勢である。
環境問題への回答には、このほうがいいと素直に思っていない設計者が多いのだろう。
定着しないまま法律がやはりでき、サイクルが作られたと思う。


ボクは今更ながら信じれるものがあるとすれば、
批評だと思う。
ロフトには仕上を捨てる哲学がある。
荒々しさを良しとする哲学がある。費用削減の指令から生まれた可能性もあるが
そこへの批評は新しいものであり、オタクを良しとするのも新しかったのだろう。
そういう感性が良い住宅を生んでいると言える気がする。

ウィンドウズかマックかの選択を迫られた時、自分はその根源的構造を把握しないまま
噂と見た目でどちらかを選んでいる。そこには決断は購入するというレベルでの支払いのみである。
そういう選択をしたまま、知識人がのたうち回っていると考えると
どうも、実におかしい。

安いから、部材が少ない、すっきりしている、と違う都市への美の感受性が批評ではないだろうか。