日記
卒論の時に作った模型を今日破壊した。
いつまでもとっておくようなものじゃないし
何か片付けたかった気持ちが強い。
ああやって作った模型は代々保管していくようである。
だが模型とは壊すためにあるような気がした。
それにいつまでもあそこに自分の分身が居続けることが私としてはうんざりだった。
正直俺が作った模型はそれほど精巧なものとは言えなかったのもあるが
破壊して良かったと思う。
フェティッシュでは前進できないと感じた。
今日は、仕事というのだろうか。
以下の映画を解剖した。
http://www.cinematrix.jp/colossalyouth/
全カットをバラバラにして見るのははじめてであった。
こうしてカットで見ていくと中々おもしろい。
もはやストーリーはない。
110カット余りが使われている。
そのうち、パンが5回で
トラッキングはなし。ひたすら画面が動かない監督で
絵画的だと思う印象はどうやら画面を決めたその瞬間が持続しているからかもしれない。
同じ画が何回か使われているが
進行にともない、その組み合わせも変化する。
ほとんどが暗い室内でわずかな質感だけでそれが何かを示している。
逆にハレーション気味のむちゃくちゃ明るいシーンもそれと対応するように
映画にプロットされている。
視覚情報は基本的には「光」によるものかもしれないが
質感といったとき、そこにどれだけの「闇」が宿っているかが
その指標となっていくのではないかと思う。
ヒカリだろーがヤミだろーが同義のようだが
素直に真逆とも言えるこの価値転換が起こると
ディテールの考え方にもなにがしか作用するかもしれない。
闇というのは、透明というのだろうか。
「パラノイドパーク」
http://paranoidpark.jp/index.html
ガス・ヴァン・サントの新作。
シネセゾン渋谷にて見る。
久々の映画館であった。
ああ映画は映画館で見るくらいの
贅沢しても許されるんじゃないかとおもった。
ガスは本作でクリストファー・ドイルと組んでいる
そのこともあって、撮影の美しさが少し技巧的に感じられた。
なぜだかしらないが、撮影はもっとざらっとしたものであってほしい。
音楽の感覚や映像の質感を含め、彼はソフィア・コッポラと
近いニュアンスを感じるのに
ソフィアは食べ残し、ガスは平らげてしまうのはなぜだろうか。
撮影において、撮る対象をカメラが追わないときに映るものに神経が使われている
この映画は見ながら、また新しいなと思ったが
少し今日あの映画どうだったんだろうと考えているときは
ありゃだめだったなと思った
そしてまたここでなにか書こうとすると悪くないんだよな あれ
となっている。
振幅しながらどこかへ落ち着こうとしている
少なくとも、音声への関わり方はベツのステージへ移行したように思う。
まだまだガスらしい音楽が流れてはいるが。
音楽への感性がいい監督は不思議と映像についても研ぎすまされている。
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インドの夜が持つ神秘的な時間を
一人の男を通して描写している。
きっとなんの音もしないような、
もちろん時折、草のこすれ合うような音はするにしても
とても静かなのではないだろうかと思う。
世界中の音を全部呑み込んでしまった真っ黒な空が目に浮かぶ。
そんな音のしないようなインドのホテルで
出会う女性とのやり取りがなんともいいのです。
世の中にはきっとこんな風に心を通わせることもあるのではないかと
思いぐっときました。
そしてバスの乗り換えの場面が思い出される。
乗り換えのための待ち時間が
この小説のメタ概念となっているように思う