厳冬

昨日、同じマンションに住まう同級生と
渋谷で呑む。
ずいぶん久しぶりだったが、彼女とは長いつきあいである。

同じマンションという枠組みならではの
マンション住人話がおもしろい。
まるで玄関立ち話的な趣向も否定できないが

今期の理事を引き受けてしまった我が家は
それぞれどんな人がこのマンションに住んでいるのか
知っておく必要もあるというものだ。

当マンションには、元共産党員ならぬ、同朋がすでに何世帯かある。
奇妙にも私の同級生が多く、本人はもう出て行った可能性はあるとしても
そのご両親、ご家族は近からずも遠からずである。
会合などがあると、◯◯君のお母さんと△△さんのお父さんと私が
話をしてたりするわけである。
にしても、そういった知り合い以外の住人のほうが数が多く
最近では、妙に綺麗な女性がいたり、明らかに無職サーファーのような人がいたりと
必ずしも、アットホームな世帯ばかりではないことに気づいた。

どの世界にも「ドン」と存在定義できるようなものがある。
このマンションにもこいつがと思えるような人がいる。
マンションの諸事情を牛耳っているというような感じ。

なんかこれまで無意識だった世界が立ち現れてきた。
まるで安物のドラマを見ているようだ
どこかに住んでいることで成立するあるカテゴリーは
だれもが包含され、だれもが背中合わせである。
自分にとって必ずしも都合のいいコミュニティではない集団と
どう付き合うかはこれからおもしろがって考えていきたい。

「隣人」や「近隣」といったサスペンスはなるほど
だれもがそのスリルと壁一枚で隔てられているだけだ。


こういった紙面を活力のバにできたらと思う。
大量に生成されるイメージ
例えばこの写真を見て皆さんはどう感じるだろうか。
敢えて作家をふせておく。知っている人はにんまりとしてください。
名無しのイメージを検索することは可能だろうか?

この密林を撮った一連の写真にとても美しいと感じた。
なぜだろうと考える。
植物図鑑のように対象を撮っているわけではない