テーブル

今日は図書館で勉強した後
代官山でヒルサイドテラスを見た

各所で必要な分だけあるという感じが残る
つまりある種のミニマルな建築は必要なのにないことが多い
だがここには必然性を感じうなづかせてしまう力があると思った

手摺が細くなろうとしすぎ、グラグラしているものもあったが
それも必然性を感じさせてしまうし
見せたくなかったけどもう手遅れで仕方なく塗ってカモフラージュしていても
それもある などと思わせてしまう

旧山手との距離が非常にいいと思う


友人の推薦である青いイナズマなる映画を見た
この監督の目線というか立ち位置はどこにあるのだろうと思った
都会的な人が地方都市を眺める目線だったろうか

さて確かにショットに必要以上の長さを与える事で情報密度を薄くし
映像自体に空虚さが現れてきているとは思う
だがある種の映画や小説において
空虚さがあるという形容自体なんの意味があるだろうか

この映画のアイデンティティを空虚や無力な抵抗という言葉で特定できているだろうか
ここがローカルであるという記号としてテレビを使って外の世界を映し出しており
どうやらここはメインストリームとは隔絶された場所らしいと分かる
一方的に入ってくる外からの情報に対して
歌を歌ってみたりバイクを走らせてみたり,花火をあげて五輪北京開催を祝ったり
クラブでは爆音で踊ってみたりと応答しようとしている
あるいは抵抗しようとしている
孫悟空のアニメを見る事はテレビに栓をしているようにも見える
そうした抵抗が尚の事、例の空虚さを引きずり出している
バスの中で彼女が7回ほど出ようとして男に突き飛ばされるシーンは
そこを脱出したいけど出られないような気分を撮っているのか
あそこでは彼女以上にカメラのほうがしつこくその様子を右左と振っている
あの執拗な撮り方は実はこの映画では際立っており脱出を浮き彫りにしたかもしれない
が彼のカメラは他でも人物を後ろから執拗に追い回しており
空虚さを撮ろうとしたとすれば
彼は血眼でそれを探しまわっていたような印象が残り
いくつかの作品で感じた空虚さとはその接触の仕方自体が積極的であったと言えるのではないだろうか