たとえば、深海二百海里で暮らしている
自分と同い年の日本人がどこかにいると
仮説をたてたとしよう。
おそらく、政府か何かが運営する研究所、
海洋学か何かの関係でそこで、研究生活をすることになったのだろう。
海底でとれる鉱物や海流の水温調査、生物の研究の可能性もある。
もしかしたら軍務に関係した調査かもしれない。
そんな仮説が何か僕に作用しているような気がする。


丁度、文字をタイプしながら、自分が顔をさすったように
その仮説上のソレガシ氏も同じようにさすったであろう。
指先が感じた感触まで、ほとんど近似値をたたき出す氏は、
どんな思いで床につくのだろうか。氏は星を見ることすらできず、
インターネットにだって、どうせ繋がるまい。


見飽きた景色が如何に異なっていようとも、その見飽きた感じは
まるで同じだろう。
氏にとって朝はどんな意味を持つのだろうか。
コンビニを思い出したり、親しい人を思い出したりするのだろうか。


何年かして街ですれ違っても、そんなこと気づきはしないのだと思うと、
急に何もかもが頼りないものに思えてくる。
でも日本の秋風がどんなだったかは、案外覚えているものである。