大げさなものを見ることに対して、まるで刺激を感じない。
写真を眺めていて、むしろこのミスショットのほうが
おもしろい。


こちらには遺跡ばかりが転がっている、
古いからと言ってなんだというのだろうと突っ張ってみる。
観光化された目は、なにも受け取らない。
掴まされた感動に付随して出てくる言葉は
どれも在り来たりで、それまでガイドブックに載っていそうである。
いくつか、私も受け取ったものに対して言葉を吐いてみたが
どれも鈍く、一種の自己嫌悪にすら陥る。


ヨルダンのダウンタウンであるジャバル・アンマンには
スーク(市場)が所狭しと広がっている。
遺跡なんかよりも市場のほうが、私には心地よい。
使い古された水道管やドアノブ、ミシン針、扇風機といったガラクタが
整理され、もう一度市場に出回ることを夢見て横たわっている様子は
大変愉快に感ぜられる。


モスクを訪れるとムスリムが膝を曲げて座っている。
直感的に黄昏の中を無常観のようなものを抱えているように見える。
達観してしまっているような感じすらある。
汚れた革靴を新たに蘇らせる、そういう感性に私は共感するようだ。