砂の女を読んでから何かにつけて、あそこに書かれていた言葉や情景を思い出す。


私に残ったのは、
砂をバケツで外に掻き出す作業にかかり切りの女の事だった。
女は風で押し寄せ来る砂を集めては捨てる日々を送っている。


男は言う、砂を掻き出して捨てるためだけに生きているようじゃないかと。
やってもやってもきりがないほど、砂は容赦なく侵入してくる。
何も進まないし、何も変わらない。砂を処理するだけで精一杯の生き方。
何も蓄積されないそうした時間の消耗に、私は怖さを覚える。


男が女に、外を歩き回りたいと思わないのかと尋ねる場面がある。
女は疲れるだけじゃないですか。と答える。
女の答えは私には屈折したものに思えたが、
外を歩きたいと思うのもそれなりに屈折しているのかもしれない。


安部はそこで、戦後の焼け野原を行く宛も無くうろつく人々からすれば、
早く定着、歩き回らないで住む自由を求めたと続ける。
私たちの世代では、外を歩き回る自由を求める。
時代が作った観念に囚われた、ひどく不自由な人々のように思える。