靴がボロボロだ。
眼鏡も買いたい。
ジーンズも新しいのが履きたい。


たいたいたい


三角スケールが割れた。
ゆで卵の殻をむくみたいに、ペリペリとれていく目盛り。
中から本当の三角スケールの姿が現れた。


一生懸命、製図の訓練をすればするほどだ。建築との距離が開いていく感覚がする。
よくもまあ、こんななにも知らずに設計ができていたと感じる一方で
知らないほうができることの多さも感じる。友人には一級建築士の取得はしないほうがいいと言いたい。
少なくとも勉強等いつでもできるので、今やるべき設計の質を今自分が持っている知性、感性で
臨むべきだし、そのほうがいいものができると思う。
担当させてもらった仕事を見返すたびに、これは中々できないなあと感じてしまう。
入江教授が言うように建築はパッションなのだ。きっと


そういえば親戚が仕事をくれるかもしれない。うーん期待したい。
母親に建築はかくあるべきだ!と説くと、あたしはそんなものはいらないと一蹴される。
あたしは、吉村順三ヴォーリズのような建築がいいのだ!と小生が教えた建築家で応戦される。
しかし、何度も言った甲斐があって、一つボールをキャッチしてくれた。
伝えるのは骨が折れるが、伝わるまでやる価値はある。


それは自分がいいと思っている家のイメージは、大抵壊れているというような主旨だ。
それが伝わったのが嬉しい。伝えたいことは中々伝わらないが、伝わるのだ。
私は例えば、眼鏡を買おうと思った時に、
ほしいかどうか、分からぬようなもの、そうした未知を幾分多く持っているようなものこそほしい。
装着するとこれがほしいかどうか分からぬのに、私はこうしてカけている
家もきっとそんな感じで、自分とは無関係に自律しているのに
それにこちらが未知をたぐり寄せて行くことが建築では大切なことのように思える。


機能主義という態度がある。なんか、善良学級委員のような胡散臭さを感じるこの主義主張こそ
徹底的に疑わねばならず、施主が建築に住む事のサポートを求めているのは、僕にはおかしく思える。
ウンヌンカンヌン あんまり色々書かない方が賢明だ。


だが吉村順三を何か絶大な本物志向のように捉えられている気がする。
あれは本物、究極の建築の在り方だ!というのは案外あやしい。
アルヴァ・アアルトもそうだけど、なんか善良さを持って眺められている建築家というのは
少し、疑っておいたほうがいいと思う。