酒をピタリと辞めた。あまりビールという奴が呑みたいと思わなくなった。
むかしは、ビールは冷蔵庫にあるだけ呑んでいたが、今はめっきりだ。
あれは労働者のご褒美だからと思っていたけど、それでも本当に呑まなくなった。
今でも僕は酒が大好きだが、こう酒を呑まなくすると酒のない人生もあるのだなあと思えてくる。
酒が呑めないなんて、つまんない男ね。


酒を皆で呑んでた時間は一体なんだったのかと
ビールの気泡のように消えてしまった。
酒で上機嫌になっている自分の顔が白けて見える。
また酒が呑める日も来るとは思うけど、こんなに客観的になったのは初めてだ。末期だな。
酒のない人生を考えると時間の感覚が少し変わるな。







インターネット接続のサービスが15000円で行われている。
とんでもない金額だが、ご高齢な方には、かなり難解なものだと思われており、
デジタルデバイドを使ったえげつない商売だと言える。


若い人がやれば、説明書を読み込み、仕組みを把握すれば、5分くらいでできる。
インターネットに接続できない場合、なにかブラックボックスの中で私にはまるで分からないムツカシイ議論を
機会の世界がしているかに見える。
だが、一般的にはそんな難解なトラブルが一庶民の宅で突然行われていることに疑いを持つべきだと思う。
トラブルは大抵、初歩的なミスによったものが多く、
一連のマニュアルをやってみても上手くいかない場合、工場にもってかえって精密検査をしますと言えば、
おお、こんなムツカシイ、技術畑には私たちは到底理解が及ばないとなる。


技術屋は自分たちを専門知識を持ったテクノクラートだと思い込んでいるが
大抵、大したことはなく、権威が言っているのだから正しいという
よほど技術屋らしからぬ態度を持って業務を遂行していると思う。


建築家は構造耐力といったデバイドを利用して自らをエキスパートとして振る舞っている。
バリアフリー新法をクリアしなければなりません!などと偉そうに言っている奴がいれば
そいつは、自分はプロだ、認めてほしいと言っているようなもので哀れだと思う。
やたらとディテールの話、経済性の話をぶちまける奴と
抽象理論を振りかざし、難解な哲学書を片手にのたうち回っている奴は対して変わらない。
最新の技術ではの背景には、ダレダレがそういっているから間違いないという権威の笠を着るしかない部分がある。
MITの研究スタッフが提出したデータと、民間の弱小工務店が独自にとったデータ
どっちを信じるかは、どうしても権威による比較が必要だと思われる。
データの採血プロセスかでの杜撰さがどちらにあるのか。
じゃあ知的フィールドの中でもっとも権力のあると考えられる人間の書いているものを利用するしかない。


国交省が発表している、これを鵜呑みにする技術者は、エセだと思う。
ここに冷ややかになっていると、とりとめもないので、自身がお金を稼げる職場がベストだと思えてくる。


建築のデザインには上手いも下手も判断がつかない。
全体性を持った流行へ敏感かどうかをひとまず、うまいかどうかにするしかなく、
ファシズム政権下のパルチザン的な視座をもって建築に取り組むには、どうしても個人でやるしかないと思える。


家具がおもしろくなり、ピエロ・リッソーニやカスティリオーニといったデザイナーの仕事を見るようになると
この視覚がソフィスティケーションだな、という白けが同時にある。
田舎者が裏原宿を一生懸命に着ているようなダサさがある。
一部のパルチザン建築家を尊敬していたが彼らは既にヤキが回っている感じがする。


一つ、光があるとすれば、実際にやっているかどうかは評価されるべきだという傾向がある。
実践的、一部の建築学科がこれを売りに教育カリキュラムを組んでいる。机上の空論ではなく実践こそ必要だと説く。
そうだそうだとなる。
実践をする際に、曖昧なデータを内包しながらやっていく場合、これは既に政治である。
実行したという既成事実。このプロジェクトをやりました!という既成事実、嘘ではないだが、
こんなものをやってしまったのかとも言える。


そうすると、建築はもはや主体的なデザインしか完成しえない。全員が嘘つきだとすれば、
デザインのような胡散臭い商売だけが自律できるようにも思える。
もう一つが経済と法律。竣工して利用開始ができる状態にするためには、それをクリアすれば良い。
ブレースが必要だとあれば、いれれば良い。責任転嫁ができる技術。