記憶力と名付けられた能力がある。
これは老衰と共に衰えていくかに見えるが私は一方でそれを疑っている。
脳医学的にそうした衰えが分かっていたとしても、
私はいつか習った脳の無限の能力をどこかで信じっぱなしである。


日々無数の記憶すべき出来事に晒されている私の脳は、
どのように記憶する対象を脳に格納しているのだろうと時折思う。
文豪の綴る文字であろうと、異国の言語であろうと
より深く理解したいと思うようになり、手で紙の上に文字として理解しようとする。
記憶は理解により定着がしっかりとすることを私は知っているのだ。


私の机の上には祖父から譲ってもらったアフリカの彫刻がある。
祖父は顔料の研究をしていたため珍しい石を多くコレクションしており、
世界各地の怪しい市場で目をきかせて、価値もまだよくわからぬ石に大枚をはたいていたそうだ。
程よい重さが気に入り時々持ってみる。
またそうした石の彫刻を触ることで、私はその石の事を記憶する。
固いものに当たった時の音やその温度、色彩などを通じて記憶する。


砂浜に足をたて波によって少しずつ砂の中に埋まっていく時の感触を私は記憶している。
もっとたくさん、いろんな事を記憶したい。
それは多分だれもが望むことだろうけど、それがどうして望まれるのかはよく分からぬ謎である。



私はミケランジェロの彫刻や建築を知っている。それがどれほど立派なものかも知っている。
それにもかかわらず、私はそれを記憶として呼び覚ますことができない。
私はなんらかの媒体を通じての映像として記憶しているからだと思われる。