今日もまた死んだ。毎日死んでいる。
誰かに掴まれた心臓は圧迫され、厚い日差しが皮膚を焼き尽くす。
死んだ体を背負って帰宅途中に
例の写真家から一報、酒呑むから来い、行く。


今日は仕事だったそうでクライアントの建築家と一杯ご一緒する。
建築家のほうは、富広美術館を担当されていた方で大変な実力者である。
酔っぱらってるからマイルドなんだけど、やっぱり目は厳しい。
お仕事を拝見させて頂く。


お話を伺っていて、大らかという言葉を使われていたので
どういう意味かと聞いてみた。ちょっと生意気だったかと反省しているが
快くお答えくださり、おもしろいことを仰っている。


この建築家は一児の父であり、写真家もそうなのだけど
子供に一杯可能性があることを教えてあげたいという事を例に挙げられた。
そうした大らかさが社会や建築に求められているんじゃないかと、そんなことを仰る。
とても分かりやすい。


これは私たちがやっていることが妙に細分化され、小さな立方体の中にいるような
そうした息苦しさのことかもしれない。コインロッカーベイビーだ。
ある人なら横断といってみたり、別の人なら大らかといったりするのだろう。
この狭さを恐らくは、東京では特に感じるのかもしれない。


建築とモノ世界をつなぐ―モノ・ヒト・産業、そして未来

建築とモノ世界をつなぐ―モノ・ヒト・産業、そして未来

松村秀一 著


ジャン・プルーヴェの建築部材を見て、その比率の奇妙さ
工業臭いドライな作り方を見ていて、いいのかよく分からないけど
おもしろそうだと感じたことを覚えている。
しかしながら、ドライというよりは、熱気を帯びた部材であることを知る。
熱々で火傷してしまうような部材。


本書で、松村がムードンの住宅を訪れた時の話をしているがその感動の仕方が新鮮だった。
クリティックの立地が違うから私たちには、見えにくいものが
ここでは語られ、少しばかり、その空気を味わうことができる。
キャノピーのアームのディテールはいかにもプルーヴェな感じだが、やってみたいと思わせる。
19世紀的な手に職と工業化の間を競歩で突き進んでいる様子が我々のような甲斐性なしには
いかんともしがたい領域に思える。