「読書をする顔の中に顔がある男」

ジョサイア・コンドルの図面集というのが
図書館にはあり、前にコンドルについての論文を読んだ時も見たが
藤森のものを読んで、また見たくなり手に取る。


こういっては退行的かもしれないが
建築は図面が描けてこそ、建築なんだなあと思わせる。
矩形図や家具図、展開図、基礎伏図を
丁寧に仕上げてあるこれらの図面には
ミスったらまた印刷すればいいというようなダラシナサはない。
緊迫感があるというのではなく、
線が知的でいて、楽しそうである。


表面的な楽しさや明るさは、地獄だが
芯から来るものであれば、これ以上のものはないなあと
図面集を見ていて熱くなる。


ジョン・ソーン自邸に置いてあった図面を見た時には
こうした快楽は感じられなかった。
図面にきっと人格が宿る。
それは恐れの線なのか興奮の線なのか。

日本の近代建築〈上 幕末・明治篇〉 (岩波新書)

日本の近代建築〈上 幕末・明治篇〉 (岩波新書)

藤森照信 著


日本の近代は明治維新とほとんど同時期に迎えられた。
奇跡のような正確さで一致している。
グラバー邸や大浦天主堂といった維新前夜のものがあったとはいえ、
この正確な一致が非常に不思議に思える。
コロニアル様式から洋式工場、御雇い外国人から辰野金吾まで
日本の夜明けをおもしろく描いている。


本書を通して興味深かったのは、
藤森がデザインの上手い下手をバサバサ判決していくところである。
様式をまとった建築であれば、それが正確な理解かどうかを見る事ができるかもしれないが
擬洋風や長い旅路の果てに漂着した建築は
すでに潮風にあたり、変色していて辛うじて出自が分かったとしても
出所の判断基準で裁けるようなものでは既にないだろう。
建築家でも史家でもあるというが
その批評は建築家でしかない人とどう違うのだろう。


妻木頼黄や山口半六がなるほど確かに辰野金吾よりうまいかもしれない。
しかし、私の中でまだこれをどう見るのか
そうした批評ができていない状態で藤森にバサバサやられてしまうと敵わなんな。


擬洋風建築の漆喰による石の表現についての話の中で
伝統建築でも洋風建築でもないものとして中込学校を藤森は何度かあげており、
擬洋風建築のサヴォア邸のような扱い方をここでは擬態している。
漆喰が伝統側に触れているものではないと判断しているところが新鮮であった。
そりゃそうである。土ですし、スカルパだって使っているのである。


住宅で漆喰を使っていると伝統的な文化を引き継いでいるようなイメージを施主に与え
それがひとまず、喜ばしいことのようになった記憶があるが
漆喰は、ただの土で鉄とガラスと同格なのである。