20世紀写真史

20世紀写真史

伊藤俊治 著



ティーグリッツからウィトキンまで
彼らの撮る写真を起点に
視覚認識、身体と世界、都市との関係が
どのような変容を得ていくかを追っていく。


写真が、都市の無意識となっていると言っている。
これはきっとベンヤミンから引っ張っている言葉だろう。
馬の足の連続写真のあたりの話だったと思うが
今なお、妙に納得できるものに思える。
おもしろかったのは、
ケネス・クラークの風景の概念が失われていく過程に
写真が貢献しているという指摘。


写真家でない人なら、撮影のときに訪れる綺麗な風景のトリミングを
自動的に持っていることだろうと想像する。
素人の写真の多くが、退屈きわまりないのは、
「風景」を持っているからかもしれない。


20世紀の風景の多くが直接的ではなく隠喩的であり、
自然自体に対する知覚や感情から発せられてたというより、
むしろ複雑に屈折し、多層化していると伊藤は言っている。


ある種の写真家の写真を見ると、
対象と直接的に接近しているものに出くわす。
ショッキングである。絵画はある意味で写真よりも劣っているようにすら思える。
私たちは写真で持って「即物的」という概念を手に入れたように
新しい概念を手に入れなくてはならないように思う。
ティルマンスの写真からは、少なくとも異なるものを感じる。


アーバスの言葉の引用が印象に残ったので引用しときます。
「私の感じでは、映画はフィクションと関係が深く、
写真は真実を扱う傾向にあります。
わかりやすい例でいうと、
映画を見にいって、男女がベッドにいるシーンを見ても、
彼らは決して二人だったわけではなく、
監督やカメラマンや照明係などに
囲まれていることがよくわかっているわけです。
でもそんなことは考えずに二人しかいないものとして見ています。
しかし写真を見る時には
撮影した第三者の存在を考えずにはいられません」


映画がもたらすものとは、なんだろうか。

ロバート・キャパ時代の目撃者

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