師走

そういえば、結婚式で驚いたのは
デザインに皆とても拘っている事だった。
その割にはデザインの話を皆していないのが
不思議である。
あのデザインはよくない!あるいはいい!というような事があまり議論されない。


少なくとも、私の知る先輩たちはもっとデザインの善し悪しについて
血気盛んに語っていたのではないか。
何故これほど、デザイン自体については話さないのだろう。
デザインこそ外交によって発展するものもないように思えます。


新しいデザインもあれば古いデザインもあります。
そんな古いデザインがまだ現役であることに時々、じんわり来る事もあると思います。
タバコのパッケージは新しいデザインほど、
まずそうに思えるのは何も私だけじゃないでしょう。


古いデザインと言えば、
初代新幹線O型が44年間の営業運転を終えたそうである。
ひかりやのぞみといった、
ニュータイプの出現によってこだまが妙に遅そうに見えたことを
思い出しますが、「新幹線」といわれれば、
やっぱり、あの団子鼻のO型でなくてはなりません。


色鉛筆で何回も描いたことを思い出します。
もう乗れないと思うと、やっぱりさびしいですね。
僕らの世代にとって「新幹線」は君しかいないのですから。




デビッド・ジャコブソン 監督作品


まっさきに思いついたのは、
テレンス・マリック監督作品の「地獄の逃避行」だった。
何かの振りをし続ける男の破滅という意味で共通していた。


あらすじは、こうだ。
トーブ(エヴァン・レイチェル・ウッド)は友達とビーチへ遊びにいく途中、
ガソリンスタンドでハーレン(エドワード・ノートン)と出会い、恋仲になる。
馬に乗ったり、銃を撃ったりと
自分をカウボーイであると思っているハーレン。
トーブの父は、不審に思うようになる。
ハーレンがイメージに浸っている様子は、
タクシードライバーでのテロリストのようである。
イメージの世界から私たちは、攻撃されているのだろうか。
鏡の前で、何度もカウボーイ然とした台詞や早撃ちの練習をする。
黙っていれば、奇妙な人で済むが、発砲によって
いよいよ、危険な人物と周囲が見るようになっていく。


映画の中で男が銃を持っている事に違和感をもった事は
これが、現実だからだと思う。これは映画ではないといいたげである。
メタ映画として機能するハーレンは、死すらもナルシスティックに迎える。
彼が悪ではない神秘性を保ちながら映画は進行していくが、
次第に自分を守るために、嘘を言い始める。



西部劇がつくるイメージと現代の住宅地が連続である様子がよく描けていると思う。
白い馬や、テンガロンハット、銃と映画世界へのチケットが
危険な物として象徴的に描かれている。


自分を保つためのイメージは、時には自分を補完し支持してくれるが
大変危険なものだと考えるようになった。