水色の聖水



しょっちゅう、転んで膝小僧を怪我し、
カサブタを作っていた


マキロン山之内製薬の傑作である。
1971年に販売され、
山之内製薬(合併によりアステラス製薬となる)を統合した第一三共ヘルスケア
現在はその商品を扱っている。


マキロンは商品である枠を越え、
もはや調味料に近い市民権を持っているように思う。
すなわち、醤油にマキロンは肉薄していると言えるだろう。


だが、創傷時にはむしろ、赤チン、白チンのほうが伝統的であったかもしれない。
白チンこそ現在のマキロンである。
恐らく出自は赤チンのほうが先であろう。
だが赤チンでは膝に色が着いてしまうからか
急遽世間では白チンの必要性が囁かれるようになった。


筆者は色が着くことで患部がよりプロテクトされた気がして
むしろ無色透明の白より赤のほうが安心感があったことを覚えている。
現在のタトゥーのようにイニシエーションを経ることで
忠誠を誓った者、戦闘を経て負傷した戦士と相成るのである。
跡を残すことで可塑的に変形を許容するのである。
ドッジボールをその後も継続している輩と
「赤」の勲章を持つ者には、にわかに別の位相が漂っていたのだ。


最近では赤チンを塗布しているような人は滅多に見かけなくなった。
怪我などしている事はニンゲンとして本来の姿ではないとでもいうのだろうか。
白チン主義が大多数となる時代を迎え
誰もが怪我をした事をひた隠し、さも怪我など一度もしませんでしたとでも言いたげだ。


マキロンは私たちの存在定義について考えさせてくれる。
過去を粉飾し、自らを抽象化することで相手に認知させようという
ゲーム界への参入するための、否、脱落することを回避するためのアイテムとして
この製品は作られたと言える。


創傷時にマキロンをつけるという通過儀礼
私たちがこれまでの何も変わりませんという神への報告、免罪符なのだ。
イメージだけは保とうとする。
怪我をし、どちらの儀式へ自己を預けるかによって
私たちは自分の規定方法が異なってきたのである。


ボディと精神の不一致あるいは同期については至る所で考えさせられる。
アイデンティティの話だ。
指を事故で一本切断したとする。
するとこれまでの自分が受け皿に
指一本分の差を感じ、精神と肉体の統合に
もしかしたら時間がかかるかもしれない。


これは、老化についてもそうである。
頭に白いものが混じり始めたら、黒く染めることで「若く」あろうとする。
ボディを若くすることで精神も若くなるのである。
そんなことは、誰にでも起こっている。
髪を短く切る、染める、ピアスを開ける、歯が生える、入れ歯にする。


性同一性障害者は肉体を改造することで
自分の精神のバランスをとろうとする。
自分の精神が女であるにも関わらず、股の下にオタマジャクシがいるだけで
バランスがとれなくなってしまうのである。


それでは高度に情報化する社会を迎え、精神の一端を情報が担うようになったらば
どうなるだろうか。ボディを亡くした場合、自分は規定できるのだろうか。
もう少し考えてみよう。


朝日新聞社船橋洋一によれば、
冷戦後、米国の「一極」時代から
中国、インドの台頭による「多極」化。
9/11テロ以後、米国、列強諸国は主導権を握る事ができず、
グローバリゼーションに伴う国家の制御機能の弱体化、
世界は「無極」化の様相を呈している。米国発金融危機はその状況を露呈させた。


世界はお金で一つになっている。
食物連鎖のような明快さで世界の仕組みが次第に見えてくる。
今回の経済情勢において、
現在の銀行の貸し渋り(膠着から来る悪循環)と
景気の後ろ盾から来るサブプライムローンが鮮やかに対比している。
未来への不安と期待で生まれる空気対流。

走り出したら止まらなくなる。
だれもが止まりたくても
自分だけは問題から遠ざけようとすることで生まれる力学。
アメリカ政府による法案や国有化という手は
国民を税という形で圧迫する。

世界情勢を見た時に、デザインは何か時代を反映しているものを提出できているだろうか。


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成瀬巳喜男監督作品


男は外で働き、女は家に閉じ込められる。
こんな事が当たり前であった当時
女は家に閉じ込められることで、自らを考える。

家の事をするのは、しごく大変であるにも関わらず、
そこには、深い挫折を感じる。
家事とは蔑まれた行為ではないはずだ
毎日同じことばかりするというのは、労働も同じはずだ。


ある渇望が芽生えることと、そうもいかない現実との葛藤が
原節子の表面的な顔に表れているように思う。
取り繕う口元と、流し目は意識的に演じられたものだろう。


階段をステップダウンした場所に立ち現れるわずかに私的な領域が
今日の街並には中々見る事のできないもので新鮮であった。
それを支えているのは、まだ舗装されていない公道に対して
私的な領域の石畳という仕上ではないだろうか。