考える葦

考えよう。考えていればその人は美しい。


パスカルという数学者がパンセの中で書いたもので
「人間は考える葦である」
というのが頭に残っている人も多いと思う。
考えなければ、人間じゃなくなってしまいます。
じゃあ人間は美しければ、考えているとも言えます。

「考える」の親戚に「調べる」がいます。
私はこの「調べる」という言葉がすごく好きです。
したしたと、辞書の薄いページを捲る様子が目に浮かぶからです。
あの頼りないミジミジになっちゃいそうな薄さに
ぎっしりと未知が詰まっているのがいいのです。

今でも覚えているが、古い辞書はしゃぶってみると
いい味がするのです。そして、すこし酸っぱい。


調べるときの辞書に対する優しい手つき
あの薄いページを捲る指、知りたいという好奇心
口からこぼれ落ちる唾液
辞書は美しい。抱きつきたい。

ときどき、ページの端っこがミジミジになって折り畳まれているのを見ると
そっと延ばしてやるのです。
そしてまた閉じると抱きつきたくなるのです。


秋葉原事件はテロである。
東はそう捉えている。
いまや秋葉原は世界都市である。
世界都市が攻撃された。

9.11ではその敵が明快に描け、対立構造を作り出しやすかった。
だが世界市民は誰に対して危険を感じるようになるのだろうか。
誰を取り締まろうとするのだろうか。
宗教観、人種の違いと似た構造をとれば、オタクは他者にできるかもしれないが
自分はなぜオタクじゃないのだろう。そんなことを考えた。