サラリーマン

一意にサラリーマンとはいえ
無限にその定義は可能であるように思う。
サラリーマンと言った瞬間
それはどこか父を指してきたのではないだろうか。



衝突、葛藤、そして尊敬といったあらゆる色を
父という媒体に投影してみてきた。
そうしてサラリーマンという言葉が作り出すイメージも
どんどん更新されていった。

私ぐらいの年齢であればサラリーマンになったねと
どこか愛おしげに、そして惜しむような気持ちで
人に言ったり言われたりしたこともあるだろう。

このサラリーマンという言葉は同時に大人、親そして父と同義になりはじめ
その世界でのエチケット、マナーは
そのまま非サラリーマン世界にも適応されている、
と感じ私は憤りを感じていた頃もあった。



だがそれは未熟であったと感じている。
同時にその瞬間にめでたくサラリーマン化を迎えたのかもしれない。
しかし無属性を謳う「個人」であるよりも前に
私は「非個人」であると思う。


それは例え世界がカオスを迎え、
パレットの上でほどよく濁色になり
民族紛争もからっきしなくなったとしても
私たちは「デフォルト」の設定を意識するのではないか。

個人主義を標榜する態度は死そのものであると考える。
思想が自己完結しようとしている時点で粒子が
「ふりかけ」みたいにさら細分化されたのである。

人類の全血液をミキサーでかき混ぜて
ストローをつけてつき返したとしても
私たちから「デフォルト」は消えないだろうと思う。


私はサラリーマンで何を指しきたのかを
今日は考えてみた。