東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

北田と東の対談形式の東京論。
推敲による大幅な改造が行われた対談と言える。

話題にもあるとおり
東京論自体にピンぼけの感じがある。
私も大学時代、いや今でも東京について
いつかは腰を据えて考えなくてはならないと思っていた
しかし実はこの東京論が空振りしている
そんなことを考えさせる本だ。

にしても例えば敷地が東京にある場合
その建築の身の振り方は東京に対する批評性を帯びてしまうではないか。
東京を批評しない建築のありようがある説得力を持って出現できたら
あるいはポテンヒットくらいにはなっているかもしれない。
脱東京論。

アトリエワン塚本による東京をコレクトした本があるが
あの考現学的方法論は何もないときに実態化でき、ある迫力を持たせることが可能である。
だが同時に何もないことを示しているとも言えるのかもしれない。

濃度差のあった溶液中の粒子も
均質化が進行し、
やがてブラウン運動が停止する。
濃度が一定値を帯びてきた瞬間、エントロピー最大の死を迎える

周囲の動く粒子によって対象粒子も動くという寸法だ。
建築が動的要因となりうるものかどうか。
ヒロイックは時代錯誤と同義として理解される。
丹下健三世代の建築家たちのヒロイックさを現代でリヴァイバルしても
有効ではない。なぜなら背景が揃っていないからだ。

東は自分をタイポロジーの範疇に組み込み、
さらには自分がまるで大したことのない位置にいることを示しながらも
どうやらどこにいてもいっしょかと思わせるような整理の仕方をしているように思う。
チケットを手に入れたがそれほどいい席ではないことを平気で教えてくれる

シミュラークルを乗り越えずにヒロイックなことをぬかしていると
やっぱり空振りしている

アフォーダンス
ギブソンが提唱した新しい世界知覚の原理。
以前からこれには文字通り新しさを感じていた。
今まで悩んできたことがまるでいくつかある世界把握の中の一つの範疇にすぎなかったのか
そういう別の思考原理を教えてくれる。

本書で少しばかりアフォーダンスがなぜおもしろいのかに接近できた。
やっぱりうまく説明はできないままなのだが。
意味が自分の中で現れるか、外にあるものか。
この辺りにストライクゾーンはありそうだ。

アフォーダンスの特徴として生物生態が説明時にしばし採用されるところがある。
本書でもダーウィンによるサンゴ、ミミズの観察があった。
南国の海で長い年月をかけて構築されたサンゴがなぜこのように繁茂しているかを考える
観察によって意味を発見するとどうやら意味は外にあるかもしれないと思わせる。
人文を超えたスケールとして生物学が使われる

建築家がアフォーダンスの原理を設計に採用することもしばしある。
例えば、階段は昇降機能をアプリオリに設定されたものであったが
階段状から劇場的用途を発見することも可能というカラクリだ
ある歪なオブジェは手摺としても腰掛けとしても発見されたがっている

よく洗濯物を干すときに、ハンガーを掛けるところを探す
生乾きであれば隣接距離を離したいこともあって
色々なところに掛ける
引っかかる形をしているだけでそれはハンガーを想定したものでなくてもよい。
木枠のチリを利用して掛けたり、レバーハンドルに掛けたり、テーブルに掛けたりもする。


ここで一つテーマを用意する、
行為の中には「雑」と形容されるものがあり
これを「ラフ」だとか「ダイナミック」ということは可能であるが
このアフォーダンスは「雑」であってはならない。
ちょうど良い、適当だが雑だと解釈された瞬間それは瞬く間にネガティブな思考回路になってしまう。
アフォーダンスが知性となるにはまだ準備が足りないようだ。