AIR

高校のときの友人が店長をしている、シガーバーというのだろうか
葉巻が数十種類かおいてあり
いくらか払えばそれを嗜むことができるといった、そんなお店にいった。
お店は南青山、骨董通りに面したところにあり、
道路に面して全面ガラス折り戸のテラスとなっており、
丁度フランス映画に出てくるカフェのようなサンルーフがついている

お店の設えは、チョコレート色をした木製棚にところせましと
強めの酒が並んでいて、甘いお菓子みたいな緑色の木製カウンターも
テーブルだけは大理石がずしりと置かれている
グラスを置いたときの音が心地よさそうである
意味ありげなひげ面の人形が並んでおり指には葉巻を挟んでいる
そう、ここがシガーバーであるということをひげ面の彼も了解してくれているみたいだ。

壁沿いに並んだ何脚かの丸テーブルにそれぞれ2対の足の長い椅子がついている。
ひそひそと、何組かのカップルが話し込んだり、
メニューを見て店長、これは僕の友人なのだが、にいくつか注文したりしている
常連と思われる人が少しばかり得意げなポーズをとっている
そんなバーであった。

その後に、代官山AIRというクラブに行く
割と有名だということだし、DJをやっている人にとってはここでやりたい
そういわせるような場所なのだとか。
スケジュールにはなかったのだが、行ってみることに変えた
ヒップホップのイベントでひたすらヒップホップが流れる
客たちがそれに合わせて踊るという型式だった

DJの方に重低音なしでやってくれないかと聞いてみたが
それは無理だと言われた
重低音が箱(こういう所に集まるひとはハコといいたがる)を振動する
この振動がなければヒップホップじゃない
体に直接くるリズムが俺たちには必要だ そんなことを言われた
私には全て同じに聞こえたしほぼエンドレスに続いているような
このハコにげんなりしてしまった

VJのブースを眺めていたが、あらかじめ作ってあるいくつかの映像をタイミングよく
挿入したり融合させたりする
この映像に対する暴力がショッキングであった
雑だとさえ思えてしまったが、このVJが使っているアプリケーションが
ほぼ自動的に適当な効果を作り出し、一定の温度にそれらを揃えてくれる

ぼんやりと眺めていると、
大きなサイズのスクリーンがハコの中で視覚の役割を果たしており、
ハコの中のスクリーン以外のものから視覚性を剥ぎ取っている 
クラブの暗さやネオンがそこでは深海魚のごとく
剥ぎ取られ損なったもののようにどろんと漂っている

何度、帰って本を読みたいと願ったことか。











キムチを売る女 [DVD]

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ジャンクーがいいとうるさい男がいるのでさて見るかと思ったが
残念ながら地元には置いてなかった
その代わりに発見したのがこのチャンリュル監督が撮っている映画。
今日はどのみちアジアを見たかった

ある意味ではジャンクーの青いイナズマのような手法とも言えそうだ
北朝鮮の映像のようなきつい原色が
ヌーヴェルバーグとは使われ方も色調も違う。

ここでは黄色が中々が登場しない
象徴的であるのが、魚の形をした黄色の凧をスプレーで青く塗っているシーンではないか。
黄色をなぜここまで排斥しようとしたのだろうか。
黄色がここでは不向きである要素とはなんだったか。
大地の色か肌の色か、もっと他にあるのか。

映画で出現する意図的な色については
例えば青にしたところで多様な青があろうはずだ
だが、ここでは前述のスプレーの青がやたらでてきてしまう
単一的な青がフレーム内でまとまっていく
映画の中では全く無関係のものたちが色を仲介して関連づいていく
画的にはそうだ

だがもう一つ頭をよぎったことに、
事実中国の片田舎ではこうしたことが起こっているのではないかと思う事だ
サンダルに使われた青と自動車に使われた青、扇風機の青が全く同じであるということだ
つまり、スプレー缶の中に入っている青い塗料はここでは
田舎町の床屋的存在になっているとも見える
標識のような街だと思えた






象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

チェーホフの死についての短編、使い走り
これが心にずんと来た
レイモンド・カーヴァーの短編は至る所で自分が持っているいくつかの記憶を
なぞってくる
私の祖父のことを思い出し、死についての考えさせられた

引っ越し
これが傑作だと思ったのは
いずれくるだろう人間折衝に私自身リアリティを感じたからかもしれない。